2000〜2001>10

サラエボの町 まだ生々しく戦争の傷跡が残ってました。ドブロニックからのバスがバス停に到着しました。さて宿はどうしようかなと考えようとしていると、一人の老婆が駆け寄ってきました。

「私の家に泊まらないか?一泊10ドルで朝飯付だよ」う〜んどうしようかなと考えてるとその老婆はタクシーを捕まえ「はやくお乗りよ、、はやくはやく」強引に連れて行かれたところは、生々しい傷跡が続く本通を脇に外れると、急な坂道を登りだした。くねくねと続く石畳、まるで迷路のようでした。日の丸の書かれた水色の市バスが何台も目に付きました。丘の頂上付近まで登りつめたところでタクシーは停まった。門から玄関までかなりの距離の坂を石の階段が続いていた。荷物を背負い駆け上ると玄関が開き15〜6になろうかと思われる娘が、にっこり、ウエルカムといい笑った。

その娘の笑顔に惹かれ、値段交渉もなにもかも放棄して、ここに泊まることにした。

彼女がいうには、土地と建物はソビエト連邦時代に政府から支給されたものらしい。当時は質素なりに生活ができたのが、ソビエト連邦崩壊後祖父、祖母の年金はハイパーインフレで紙くずになり、祖父が病死して、父と母はドイツに出稼ぎに出ており、祖母と二人暮しをしており、高校1年とのことでした。すこしでも生活費の足しにとバス停まで行き外国人宿泊客を探すのが老婆の日課とのことでした。

会話の中でなにかの拍子に1ドルについての重みの議論になったのですが、日本では1ドルの価値は、ちいさな子供に与えても喜ばないくらいの価値しかないんだよというと、彼女は真剣に怒り出したのでした。「なにを、、いうのですか、、私たちにとり1ドルはすごい重要な金額なのです。家族の一日分の命が救われるだけの価値があるんです」私はなにもいいかえすことはできかった。

この町の物価が驚くほど高いのにすぐに気づきました。日本並みの給料をもらえたとしても、とても外食などしていたら生活できないくらいにです。

トラムで市内観光に出かけました。ガイドブックも予備知識も持たない私を連れて歩いたのは、ドブロニックのバス停から一緒の優秀な日本の学生でした。夏場のことでもあり、かなり露出度の高い服装を現地の若い娘たちはしておりました。とてもセクシーな娘が歩いていました。感激するくらいスカートの丈が短く、見とれていると、優秀な学生が、この橋から第一次大戦が始まったのですよと教えられたのでした。

サラエヴォ ラティンスキー橋「旧プリンツィプ橋」

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