カンボジア>キャピトール王国




CAPITOL1、CAPITOL2 CAPITOL3、HELLO、HAPPY、HONGPHANN GUEST HOUSE、サイゴン行きをはじめとした各方面へのツアーバス、そしてレストラン等周辺の土地と建物の回収し続け拡張してきたキャピトール王国。

ポルポト政権下の地獄を強かに生き延び、開放と同時にプノンペンに舞い戻り、裸一貫から周辺の実力者に成り上がり王国を築いた。

ある旅人の話によると経営者の父親は医者であったらしくその必要性から一族は収容所での虐殺の難を逃れることができたらしい。ポルポト時代わずか数千ドルの所持金を密かに隠し持ち生き延び、開放と同時にその資金を元手にキャピトール1を設立。

またある旅人の話では開放当時プノンペンは無人の館であった。強制収容所から生き残り、プノンペンに戻ってきた人が空き放題の建物を無料で、早い者勝ちで、占拠できたらしく、王国一族もそのうちの一人であったらしい。

アンタック駐留時代アンタックの兵士や解放後始めてこの地を訪れだした旅行者を相手に商売に成功して、現在の基礎を築いた。当時カンボジアを訪れるにはまず空路プノンペンに入国する以外になく、当時のプノンペンではホテルの数が絶対的に不足した状況であり、この地を訪れた旅行者が泊まれる安宿といえばここキャピトールしかない状況下での経営であった。

しかし時代は変わり、プノンペン市内に次々と増え続けるキャピトール王国を真似、それに独自の創意工夫を加えこんだ良質のゲストハウスが飽和状態になってき。それに加え首都プノンペンを経由する必要もなくバンコックからアンコールワットを訪れることが可能になったことに起因するプノンペンへの旅行者の減少。カンボジアでのベトナムビザ取得の簡素化による旅行者のプノンペン滞在日数の短縮。

さらにはキャピトール王国周辺の環境の悪化が著しく王国に圧し掛かってきている。王国の一角にある数十件の自転車屋が、日本の放置自転車を北朝鮮経由でコンテナー満載に輸入。その放置自転車の車体に日の出から日没まで一斉に塗料スプレーを路上にて吹きまくる。王国中、部屋の中にまで塗料スプレーは容赦なく舞い込み悪臭を放ち放題である。また王国レストランにも、日没までの間容赦のない塗料スプレーが食事中の利用客を襲い続ける。

上記の理由により、この王国にも陰りが見え始めてきている。つい去年の夏までシーズンに関係なく満員であった王国に閑古鳥が鳴き続けた。2002年夏、ヨーロッパや日本の学生などで大いに賑わうはずであったシーズン中キャピトールレストランは一日中がらがら。キャピ1も赤字経営に近い状態が続き、昔の栄光を取り戻すことは不可能であった。キャピ2に関しては宿泊客が日に2〜3人という状況が慢性的に続いた。

夜サイゴンから到着したバスを観察しているとバスから続々と降りてきた西洋人バックパッカーをなんとか王国に引きとめようと必死の一族を横目に、湖周辺に、他のエリアに、環境の良い新天地を求め、蟻の巣を散らすように他のゲストハウスに散って行った。

2002年クリスマス。うっと惜しい雨季も終わり季節は乾期に変わり、雲一つない青空が広がり涼しく年間を通しもっとも過ごしやすいこの時期。ヨーロッパはクリスマス休暇に入りベストシーズンであるはずなのだが、やはり王国に昔の栄光は二度と来ることはなかった。

キャピトールホテル2




帰ったよ 今日も一日いい汗かいたからねベランダでビールを飲むとこなのさ 空缶3個200リエルで売れるからね楽しみに待ってなさいよ。いい汗かけばかくほどビールの本数も増えるからね飲んだ分だけ君のチップになるんだね。


とても愛着のあった思い出一杯の常宿ホテルキャピトール2 

シングルルーム1泊2ドル。トイレ、シャワー共同。個室に関していえばおそらくこの地の果てプノンペンにおいて最安値のゲストハウスということができると思います。ちょっとこの写真では見えにくいですが各ドアーに金具がついておりまして自分の南京錠が使えるようになっておりますので、安全面も低価格にもかかわらず十分に確保できるメリットは捨てがたいものがあります。




私もずいぶん前からここを常宿にしております。なんせ安いんでね!!先行き不透明なこの時代緊迫した財政状態にてほんとこの宿の存在は助かります。妙に愛着感に浸ることが出来るのです。

別にこれといって特別になにかあるわけでもなく所得の低き人々の住む物価の安い国々の何処にでもありそうな一般的な安宿なんでありますが、ちょっとだけおかしなところがありまして、日本人約7割西洋人3割といったところです。何の見所もないここプノンペンでありますので入れ替わりも激しいのでありますが一部セェムリアップにさえも行ったことのない沈没者が延々と居座ったり、毎年のように顔をあわせるリピーターもかなりの割合であります

私も最近そうなのでありますが、沈没組に共通するてんはなんせ何も無いところに居続けるだけあってその個々の存在そのものが不思議であり、異様なのであります。顔見知りの行動を観察、干渉したり、私生活にまで突込んだりするのは沈没組みの間での御法度でありますので、もう10年以上前の楽宮、ジュライホテル当時からの知り合いであっても私生活面での素顔は厚い鉄のカーテンで厳重に覆われお互いに知ることはありません。彼ら沈没組を長老とでも仮定しておきましょう。



A長老は大変規則正しい生活をこの地、このホテルで送る。毎朝6時起床 朝の柔軟体操を欠かさずに行う。そして何時も、何時もの時間に洗濯。そして何時もの時間に朝食。何時もの時間が訪れるまで読書をして時間を潰し何時もの時間に何時もの場所で昼食を摂る。そして何時もの時間に何時もの時間まで昼寝と読書で過ごし、何時もの時間に何時もの場所で夕食を摂り何時もの時間に眠りに就く。しかし彼の素顔を知る者はいない。

B長老は昼前に起床 そのまま朝と昼兼用の食事に行き再び部屋に戻りまた外出して夜まで戻ることはない。彼が言うには人里はなれたある村まで自費にてボランティアーを行いに行っているらしい。しかし彼の素顔もまた厚い鉄のカーテンで厳重に覆われだれも見たことはありません。

C長老は社交的でこのホテル以外の長老とも親交深くだれとでも付き合い、何処にでも出入りする。昼間ほとんど部屋にいたことなどない。彼の素顔もまただれにも知られてはいない。



D長老は社交的ではなくどちらかというと限定して選び抜いた少数特定の元ジュライ組だけと親交を重ねる。しかし彼と親交のある少数特定の元ジュライ組の間でも彼の素顔など知られてはいない。

E長老は年金もちゃんと掛けており十分な貯金を蓄えてもいる。この不況で納得のいく賃金を取れる仕事もなくなったのをきっかけにリタイア。掛けた年金を一日でも長く貰い続け元を取る決意を固め日々摂生に努めこの地に篭城を決め込む。質素倹約に励み月250ドル以内で生活を続けている。あと10年ほど頑張れば年金生活の年に達するという話だ、彼の表情からは余裕さえ感じられ人当たりもいい。彼の生い立ち、素顔を知る人もまた存在などしない。

F長老は定期的に毎年この地に吹かれて来る。なにをするでもなく、日中部屋の中で過ごす、部屋の扉も開けっ放しにされており彼の生活状況は丸見えである。そして夕方行きつけの飲み屋に出かけまた帰ってくる。消灯時間まで扉は開かれたままである。しかし彼の素顔を知る人もやはりいない。

G長老は一日のほとんどをベランダで過ごす。朝ホテルの近くで豆乳とフランスパンを買い込みベランダで朝食を摂る。そして昼まで過ごし行きつけの食堂に昼飯を食べに行く、再びベランダに戻り夕方になるとビールを飲み夕涼みを始める。晩飯から戻るとアイスボックスをベランダに持ち出し本格的に飲み始める。彼の素顔はだれにも見えにくいものである。

H長老は居続けている。職無し、住む所無し、貯金も無い。今手持ちの金が尽きたらそれで一文無しになるのだと笑って答える。もう40歳を超えている。それで将来不安は無いのかと?だれもが尋ねる。彼は何時もこう答える。見ろよこのホテルの一族の顔を奴ら笑えない病気に罹っているだろ。あれではいくら金を持ってても死ぬ時死に切れないよ、祝福を感じたことも無いはずだよ。俺思うんだよ人生真の勝者とは笑ったもん勝ちだってね。おぎゃーと生まれてから、死ぬまで何回腹の底から息もできぬほどに涙を流しながら笑ったかてね。この世は無常いくら金を貯めこんでも、明日紙くずになるかもしれない。もしそうなったら、この一族死ぬ瞬間何の思い出が残るだろうか?笑いの貯金は絶対に減らないよ。これだけは常だと思っているからね。彼の素顔は笑いで全て隠されている。

もちろん私の素顔も貴方に知られることなどありはしない。

生涯忘れることの出来ない苦い思い出

2002年7月プノンペンに着いたその日の夜。窓側の部屋があいにくふさがっていたので窓なし側の部屋に泊まった。疲れ熟睡していた私は吃驚して飛び起きました。その瞬間寝込みを襲われたことに気がつきました。薄いベニヤ板一枚で仕切られた隣の部屋から女性の悶え声が聞こえ、ベットのきしむ音と共に振動が伝わってきました。もう2年近くいる宣教師風の西洋人が天使を連れ帰り夜の営みを盛大に行ったのでありました。その宣教師風の西洋人は最近頻繁に天使の連れ帰りを行っていることをある長老から知ったのであります。

私は窓側の部屋に変り安眠の日々が続いておりましたが、隣の14号室からある日の夜中。夜の営みを超盛大に行う西洋人カップルの騒音で目が覚めました。その後彼らは3日間居続け夜の営みを繰り広げていきました。

忘れることのできないあの惨事は蒸し暑く寝苦しい2003年5月のある夜中に起きました。12号室に宿泊していたある日本の女がいました。その日本の女はその事件の当日このホテルに流れ着いて来ました。挨拶も言葉さえ交わしはしませんでした。

状況を説明いたしますと。あいにくにもその日3階は日本人で満室でありました。やっと眠りに就いたその時事件は起きたのでありました。女の悶え声で目が覚めた瞬間その悶え声の音量の異常さに気付くのに時間を必要とはしませんでした。なぜならば3階全室に響き渡る大音量であったからです。眠気眼で暫く放心しておりましたが一向にその悶え声は衰える気配はありませんでした。何事か起きたのかも知れないと思い廊下に出て部屋元を確かめると昼間流れ着いてきた日本の女の12号室でありました。3階全室に響き渡る大音量は延々と続いておりました。しばらく呆れ果てておりましたが、眠りに就くこともできず、この神経は只者ではなく、またあまりの非常識性にやがて怒りがこみ上げてまいりました。
軽く30分は過ぎたのだろうか?全室に響き渡る悶え声は一向に収まる気配がありませんでした。そのうち怒りは消え去り妙な心境になり好奇心に駆られて覗いてみたくなってきたのであります。私は無意識のうちにベランダに回っていたのでありました
カーテンが半開きになっており扇風機の風で残り半分のカーテンもひらひらとめくれあがっておりました。室内は豆電球が点いており、月の明かりと共に部屋全体が怪しくピンク色に見えたのであります。

部屋の中を覗いてみました。その日本の女が髪を振り乱し歓喜に包み込まれながら西洋人と絡み合っている姿があまりにも簡単に、鮮やかに、はっきりと私の目に映ったのでありました。その日本の女を歓喜に導くお手伝いをしている西洋人の男は2階に泊まっていた西洋人の男であることも簡単に確認できたのでありました。未だにたどり着かぬ歓喜の終着駅を目指し合い私の存在に全く気付かぬ二人を固唾を呑んで私は見守っていたのでありましたが、突然廊下側から「外から鍵を掛けてしまえ、火をつけろ、燃やしてしまえと」言う叫び声と共に、ベニヤ板の壁を蹴り飛ばす「ボーン」という音が聞こえてまいりました。その瞬間その絡み合っていた二人は、そのままベットの上で身動きできぬ魚と化し同時に悶え声も消えたのでありました。廊下側からドアーの開く音と同時に複数の人々の罵声が聞こえてきましたので戻ってみると全員が我慢しきれずに部屋から出てきていたのでありました。ベニヤ板の壁は穴が開いており今でもそのまま残っています。その蹴り飛ばした犯人は未だに分かってはおりません。そしてその朝、日が昇る前その日本の女は、誰にも知られることもなく、ひっそりとこのホテルから逃げるように出て行ったのでありました。その後その日本の女の消息は誰も知るはずもありませんでした。

追記
今現在思い出のびっしりと詰まったキャトール2は閉鎖されています。もう楽しかったあの頃には戻れないのです。