カンボジア>日カン友好

この町の移動はいつも危険に満 ちていた。ありとあらゆる通りの隙間をバイクがすり抜けて行く。進行方向にだけ気をつければ済まされる問題でもない。通りを横切る時、気を抜けば反対方向 から逆走してくるバイクにはねられる危険が潜んでいる。また日本の援助で設置されている立派な信号機がモニボン通りにいくつかあるが、自動車を除けば誰も 守ってはいないのが現状だ。青になり渡りかけるとあるバイクは堂々と信号無視をしてつ込んでくる。またあるバイクは歩道に乗り上げそのまま走り去って行 く。右左折をするバイクに限っては、だれも歩行者に気を使う者などいない。バイクを運転している人たちは、だれもがボートしながら運転をしている。きょろ きょろとよそ見をしながら思い思いに運転を楽しんでいるのだ。あちらこちらでバイク同士の接触事故を見かけることができる。バイクと車の接触事故が起きた 時を観察していると。弱者の側であるバイクはどのような状況下であっても、けして車側に勝つことはできない。車側はバイクを跳ねても顔色ひとつかえずにそ のまま走り去って行ってしまう。

この町を歩く時、いつも危険に満ちていた。歩道を歩きたいのだが、歩道は車に占領され人の歩く隙間もない。しかたなく車道側を歩かねばならない。歩道脇を安全に注意深く確認しながらいつも歩いていた。ときにバイクが逆走で自分めがけて突っ込んできた。

わずかな遠出をする時、バイタクかもしくは歩きしか選択の余地はないこの町でしかたなくバイタクを使っている。自分の乗っているバイタクの運転手も他のバ イクの運転手もきょろきょろとしながら運転をしている。不安でしょうがなく、いつも恐怖心で震えなければならなかった。走行中、横を走り抜けて行く、逆走 して来る、交差点から右左折して来るバイクと何度か、かるく接触したことがある。信号待ちの時、その横を無理にすり抜けて行ったバイクに何度か、足をかる くぶつけられたことがある。

いつだかある旅人がバイタクの後ろで信号待ちの時、その横をすり抜けて行ったバイクに足をもろにぶつけられて、複雑骨折をした。そのバイクはそのはずみで一旦停止したが、動物的な状況判断力により逃亡の道を選びそのまま消え去って行った。

その旅人はこの国の医療水準を温かい目で配慮し、ヨガを取り入れながら自力治癒にまかせるしかなかった。

このような交通状況下の渦中におかれながら、多くの邦人が暮らさねばならなかったのである。

そんな状況下での2001年夏再びこの町を訪れた私にとて、おおきな、ひとつの、灯りが、灯されていたのであった。なんとこの町にエアコンのよくきいた市 バスが、500リエルの良心的な価格と町中の住民と邦人とその他の外国人の大歓迎を受けながら運行を開始したのであった。この運行に反対をしたのはバイタ クの運転手だけであった。

美しくボディーにPPCSとペインティングされた市バス車両が大量に投入され、市内のいたる所に設置された市バスの停留所は300メートルも歩けば、看板を目にすることができた。PPCSがプリントされたTシャツまで出回り、市内でよく見かけた。

私も、他の旅人も頻繁に利用させてもらっ ていた。15分に1本の割合で市内中何処にでも行くことができた。路線地図も販売されていた。本数が多いので混雑からの立ち席にあうこともなく、この町の 交通戦争に巻き込まれることもなく快適な滞在生活を送ることができていた。車内では、安堵感からか、乗客の表情も明るく、運転手と車掌と見知らぬ乗客間か らの軽い冗談と笑い声が絶えたことはなかった。乗車、下車時に、車内の何処からともなく「ありがとうという」日本語を頻繁にかけられていた。旅人のだれ でもが、この看板の垂れ幕「JICA」を見ることにより、「ありがとう」の意味を理解することができた。多くの旅人が口をそろえて言ったものであった。こ れは非常に良い事だ。我々の支払ってきた税金がこのように有効利用され、自分の身にもちゃんと帰ってきていると。

しかしこの喜びも、ほんの一瞬の喜びでしかなかったのであった。私が訪カンして1ヶ月もたたない間に、この看板の前で何時間待ってもあのバスは二度と来ることはなかったのである。

再びこの町の交通戦争に巻き込まれながら幾日か経ったある日のある夜。いつものあるレストランでの夜の長老会議での出来事である。顔見知りのオーストラリ ア、フランス、ドイツ人たちが、「We have a big question to the government of your country」といきなり尋ねて来た。「なんだろうと考えていた」あの市バスのことであった。彼らが聞きたかったのは、あの垂れ幕付の看板に記されてい る「From 01 June to 30 June 2001」の意味だったのである。彼らが言うには、わずかな期間の間だけの運行になぜこんなに熱を入れた、、設備投資をしなければならないのか?俺たちも あのバスは利用させてもらったがすでにバスは来ることはない、、しかしあの看板だけは残り続けている。いったいあの看板はどうするつもりなのか?もったい ないと一言呟いた。

旅人たちは日本人であるので、日本流の援助の仕方が痛いほど理解できるのが彼らには、理解できないのであった。「この彼らの質問」には、みなが困り果て ていたが、ある旅人がすばらしい表現で答えた。「森前首相が日本国は神の国であると発言した」のを知っていますか?そのとうりなのです。「日本国は神の 国」なのです。だからこのような援助が出来るのですよ。

そして2002年夏 再び私は訪カンしました。がやはり二度とあの市内路線バスが来ることはありませんでした。あの綺麗にペインティングされた大量の車両郡はわずか1ヶ月あまりの運行後どうなったのか、それとバス停の看板やらの設置後の残骸はどうするつもりなのか?あまりにも謎に満ちすぎた「独立行政法人-国際協力機構」の不思議な善意に満ちた対外援助の一角を垣間見た気がしました。

日本の援助で作られた橋。日本橋です。500リエル札の裏に載ってたような記憶があります。
プノンペン市内の公園内にありました。なにかのプロゼェックトのようです。
こんな見落としてしまいそうな道端にも日カン友好の証はありました。
70番ストリート「通称トゥールコック」以前は地道で砂埃がすごくて雨が降れば水溜りになりどろどろの沼と化し酷い環境でした。

日本の援助により綺麗に舗装され、幹線道路として生まれ変わりました。