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1986年 11月

生まれて初めての海外旅行「一人旅」東京発エアーインディアーバンコック着。ドンムアン空港前から29番市バスで、ジュライホテルへ。ヤワラー界隈の旅人たちに出会い旅とは何なのかを考えさせられながら、カルカッタに流れた。北京飯店で出合った旅人たちから、おおよそのことは聞き、イメージの中では理解しているつもりではあったが、飛行機がカルカッタに近づくにつれて武者震いが止まらなくなってきた。ヤワラー界隈でカルカッタに行く旅人を探しはしたのだが運悪く同じ日に行く人を探し出すことはできなかった。

夜遅く飛び立ったインデアンエアラインは真夜中に到着した。機内で日本人を探したが残念なことに見当たらなかった。近くの席で日本人らしき老人を見つけたが、隣の座席のインド女性と何不自由ない英語で話し合っていたために、日本人とは思わなかった。入国時、私の並んでいた列の先頭の日本の商社らしき人物が係官に何やら、いちゃもんをつけられていた。その商社らしき人物は何か言い返していたが、最後係官が大声で怒り出し入国スタンプを押すのを中断され、脇に外れるように手で命令した。そしてその商社らしき人物を横目に次から次へと列の人々が入国して行った。脇で犬猫の様にほったらかしにされていた、その商社らしき人物の哀れな姿を見ながら、これが噂のバクシーシューなのかな?彼は取り残された後、最後の最後に人目に付かなくなったところで金を払わされ何とか入国できるのであろうと勝手に想像しながら、次は我が身かと思い何だか背筋が寒くなってきた。

自分の番がやって来た。足がぶるぶる震えてきた。必死でその恐怖感を係官に読み取られては大変と隠し続けた。何の問題もなく入国は出来た。第一関門は突破したが、次にまたそれ以上に厄介な問題が待っていた。どうやってこの真夜中にサダルストリートまで行けというのか?到着ロビーまでたどり着き、さあこれからどうしようかと考えていた。

両替屋に人が並んでいた。まずは両替と思いその列に並び20ドル両替した。タイバーツよりも高く約10円くらいしていた。西洋人の旅行者が3人地べたにマットレスを敷き寝転がっていた。多分彼らも行き先は同じで朝が来るまでここで待つつもりだろうと思い私も朝まで待つことにした。彼らの隣にリュツクサックを枕にしながら寝転んでいると、先ほど機内でインド女性と英語で話していた老人が話しかけてきた日本人であった。老人は自分のことを語りだした。インドは初めてであり、どこに泊まっていいのか分からない。ガイドブックも情報も持っていない。よければ一緒にどこか知っているホテルに連れて行ってくれないかと言った。私も初めてで何も分かりませんが、サダルストリートのパラゴンホテルに行くつもりですので、別にかまいませんよと了解した。

この老人は広島の出身で、どこから見ても旅行者には見えず何のためにカルカッタに来たのか理解しかねた。小さなねずみ色のズタ袋一つを背中に背負っていた。どこかの工場の作業服の上下を身に着けゴム草履を履いていた。夜も明けだした頃、隣の西洋人3人がサダルストリートに行くならタクシーで行くので一緒に行かないかと聞いてきたので5人で行くことにした。

交渉は彼らに任せた。オーストラリア人、1人、スエーデン人2人のコンビであった。途中色々な景色が目に入ってきた。緑、牛、貧民街、牛車、高級乗用車アンバサダーがサダルストリートに到着した。

彼らはモダンロッジはどこ?だと運転手に尋ねた。運転手は嫌々モダンロッジの前まで車を走らした。私はパラゴンはどこかと聞くと指で、すぐ後ろのホテルだと答えた。タクシーからおりて、パラゴンに向かおうとすると、老人が私の手を引っ張り彼らの後を追ってモダンロッジに入って行き、彼らに一緒に泊まろうと言いだした。それを聞いたレセプションの従業員が5人用のドミトリーに連れて行った。彼らはそのドミトリーで了解した。私がパラゴンに行きたいと言うと老人はあんたそんな殺生なこと言わんとここでいいやないかと訴えるように言った。老人の悲しそうな顔に負け渋々納得した。

本音は英語もほとんどできずあまり興味の対象でもなかった西洋人と一緒に寝泊まりするのは嫌であり、日本人が多く宿泊しているはずのパラゴンホテルに泊まり安心したかった。皆がシャワーを浴び終えた頃スエーデン人の二人が朝飯を食べに行こうではないかと言い、ロンリープラネットを頼りに陣頭指揮を執った。

サダルストリートに出て左に回り少し行った所にそのレストランはあった。マイケルジャクソンのいるお店であり、多くの旅行者で賑わっていた。食べ終わった後彼らと別れ、老人と2人でチョーロンギを歩いた。人の群れが市バスにぶら下り、黒煙を吐きながら走っていた。高級乗用車アンバサダーもそれに負けじと走っていた。排気ガスでタバコを吸う喉元が気持ち悪くなり吐きそうになった。トラムも人だかりを乗せながら大きな音で走っていた。

歩道にはとてもおおくの大道芸人たちがいた。両手、両足が3分の2以上なく、ローラーに乗りながら、わずかに残った腕を利用して走り回る男が近寄ってきていきなりバクシーシューと喜捨を要求された。また生まれながらに親から不具者として改良された男が、腰の骨を曲げ変形させられ前屈運動の姿勢のまま直立できない男が通りに一日中立ち続けていた。片手、片足が無いくらいならまともな方に思えてくるくらいに悲惨な状況であった。

1時間位チョーロンギ界隈を散歩していると老人がもう帰ろうと言いだし、急に暗く悲しそうな表情になったので部屋に戻った。晩飯も5人で中華を食べに行った。外出先でも、部屋でも老人は英語ができないと言い彼ら3人とは英語で話そうとじゃせず、英語のできない私を通訳にしようとした。次の日の朝、止める老人を遮り彼らと行動ることえの苦痛に耐えられなくなり私はパラゴンに移った。

1階のドミトリーで日本人と話していると老人がねずみ色のズタ袋を持ち同じ部屋に移って来た。昼過ぎ髪が長く背の低い日本人の男が外から帰ってくるとその男はいきなり話しはじめてきた。インドは何回目かなと尋ねてきた。私ははじめてですと答えると、その男は急に尊大な態度にかわり、先輩ぶりを発揮していきなり自分の放浪記を自慢げに話しはじめた。悪い人ではないが、お節介で自慢屋であった。

何やら椰子から作った丸い器をベットの下から取り出し、リュックサックからも透明の袋を取り出した。その透明の袋には草らしき物が入っていた。その草を丸い器に入れながらほぐしだした。そしてタバコを少し入れシュガレットペーパーに巻きはじめた。それを手に持ち両手を合わせお祈りしながらボンシャンカーと言いながら口に銜え火を点け何服か思い切り吸い込んだ。彼はインドの先生であった。暫くして私に回してきた。何も言わず黙って吸えばいいんだよと言って強引に吸わされた。

彼の放浪記は続いていた。インドは全てとの戦いである。虫との闘い、人との戦い、病気との闘いこれに負ければ去らねばならぬと言い、手提げバックから軟膏を取り出し腕に塗りはじめた。虫にやられてね痒いんだよ。君のそのベット昨日まで居た日本人が南京虫に食われ泣いていたよ。早くマットレスを屋上で日光消毒しないと今晩眠れないよと助言してくれた。私は言われるままにするしかなかった。ところで君そののハッパはどうかね?効いてるかね?あれ良い物なんだよ。あれが分からなければはじめての初心者だねと自慢げに言った。インドの先生が言うには、一日一仕事郵便局に行くならそれだけ、鉄道のチケットを買いに行くならそれだけ、いいかねこの暑いインドではそれ以上無理をするとわけの分からぬ病原菌が待ち受けていてすぐに病気に罹るよと教えられた。

彼の講義はまだまだ続いていたその時、一人の日本人の男が部屋に来るなり突然、すいません、タイのビザを取るにはどうしたらいいでしょうか?と切りだした。尻に穴の開いた短パン、破れたTシャツ、ゴム草履、長髪を後ろで縛り、汚いツバの付いた帽子をかぶっていた。インドの先生が一言君肝炎に罹っているね、顔がまっ黄色だよ、黄疸が出てるねと言った。私はその男の顔を見て怖くなってきた。着いていきなりすぐに噂には聞いていたが、肝炎患者を見かけることができるとは、はすごい国だなインドはと思った。インドの先生の言うとおり全て戦いなんだなと思い気合が入ってきた。肝炎の彼はバングラディシュで感染したらしく、タイに行き静養するためにビザを取りに行くらしかった。その夜、彼の泊まっているモダンロッジに見舞いに行ったが、全身まっ黄色でとても寂しそうであった。彼と後に楽宮旅社で再開したが、彼は保険に入ってはおらず自力療養で治したということであった。

日も沈みかけた頃、部屋のメンバーが全員外から帰ってきた。インドの先生は、それではこれからカレーを食べに行こうではないかと言い陣頭指揮を執った。消防署のある通りの地元向けのカレー屋であった。ベジタブルカレーとライスを全員が注文した。インドの先生が手で食べはじめた。初心者君には辛いと思うが、手で食べるのが一番うまいんだよと言い講義が続いた。まず親指以外の手でカレーをつかみ、口元まで運んで親指でカレーを口に放り入れるんだよ。手で食べることにより味覚が敏感になり美味しさが増すのさ、食器などヨーロッパでペストなどの伝染病が流行したので、その防止として使われだしただけだよ。スプーンなど使わないにこしたことはないよと言い自慢げに食べまくった。食べ終わるとインドの先生が洗面所に行き備え付けの石鹸で手を荒い口を濯いだ。私もそれに習った。インドの先生が、これは虫歯予防にいいんだよと締めくくった。

サダルストーリートに戻り路地のチャイ屋でチャイを飲んだ。食後もちろん、インドの先生の陣頭指揮の続きであった。人々の往来を眺めていた。乞食の子供たちが丸裸で歩き回っていた。彼らは3歳児であろうとも、しぐさや顔つきがすでに大人のように私には見えた。インドの乞食の子として生まれた以上はこのきつい環境を生き抜くために子供が子供であっては生きてはいけず二本の足で歩けるようになると同時に自立した大人にならなければならないカースト社会なんだなと私には思えた。小さな体を5本の足の指が開き大地を確りと踏みしめていた。生れ落ちた時からもう大人になっていなければ適応できないこの国の凄さを思い知らされた。

チャイを飲み終わった後も、インドの先生は陣頭指揮を執った。近くのマーケットに連れて行かれた。何の変哲もない所で急に立ち止まり、木の電信柱に備え付けられている縄を引っ張っぱりタバコに火を点けた。縄に火が点けられ誰でも使えるようになっていたのであった。彼はこれが見て欲しくてここまで来たのだよと言った。当時巨大な人口を抱え計画経済に頼るインドでは、とかく物が不足がちであり、マッチから鉛筆、ボールペンまで貴重であり何一つ無駄にはしなかったインドである。タバコに使う火さえこのように共同で使い合っているのであった。当時ジョニーウオーカー、スリーファイブが売れた時代である。片腕の売人がパラゴン横で旅行者を見つけては何か売るものはないかと声をかけてきた。旅行者も心得ていてどこかの免税店で買出しを済ませ旅費の一部でも稼いでいたのである。

パラゴンへの帰り道サダルである光景を見かけた。老人の引いているリキシャーといかにも裕福そうな家庭の少年が擦れ違いざま軽く接触した。その裕福そうな少年は振り向きざまに、いきなりその老人を力任せに持っていた革のかばんで殴りつけた。殴られた老人は抵抗できず渋々とそのまま通り過ぎて行った。皆が唖然として見ているとインドの先生は講義をはじめた。カーストだよ。金持ちの命は地球より重く、貧乏人の命は軽石よりも軽い。あの少年のカーストの方がはるかにあの老人より高い、だからあの老人は何をされても泣き寝入りするしかないんだよ。ノープロブレムだよ、ここインドでわね。気にしない、気にしない、さ〜帰ろうかと言い、パラゴンに戻りついた。

ドミトリーのベットの上で旅の話に花を咲かせていた。ボンが何回も回って来るその日、一人の西洋人以外全て日本人であった。やはりインドの先生が中心的役割を果たしていた。一人だけ回って来るボンにも参加せず、ベットに寝転がりスキンヘッドに剃り上げた頭を手で何回も叩きながら入念にマッサージをしている男がいた。その男はもう13年間も旅をしているベテランであったが、何だか特に変わっていた。我の強く協調性のあまりない旅人の中で特に協調性がないように見えた。ボンをしないまでも会話ぐらいなら参加してもよさそうな物なのだが、その男はまったく自分だけの世界に生きているようにも見えた。

インドの先生がその男について勝手に説明しはじめた。その男を指し、先生はもうこのベットの上に40日間居続けている主である。100カ国以上の国へ行っていてどんなことでも特に各国、当時の為替レート、物価、金銭に絡むことを全てを頭の中に記憶しているデーターバンクである。頭のマッサージについても勝手に説明をはじめた。先生は若い頃から禿げとデブになることを大変嫌い恐れていた。しかし寄る年波には勝てず最近薄くなりだした髪を眺めているうちに禿げになることへの強迫観念に囚われだし決意を固め頭を剃った。剃れば濃くなるの理論である。そしてマッサージを地肌に加えればより効果が得られると考え、夜寝る前に30分間の地肌マッサージを欠かさず日課に取り入れた。

説明はまだまだ続いた。先生をこの20日間観察しているが先生は大変規則正しい生活を送られている。起床朝7時、それから30分間頭のマッサージをはじめる。そしてトイレ、それから消防署の通りに朝飯の買出しに行く。メニューはバター、ジャムを塗ったトースト2枚、ゆで卵2個、毎日何時もの店で何時もの物を何時もの時間に買いパラゴンに戻る。当時存在していたパラゴンの1階階段横のレストランでチャイを買い部屋のベットで朝食を取る。

インドの先生の説明はまだまだ続いた。先生は大変神経質なお方で衛生面に対して大変神経を注がれている。わざわざ布巾に包んであるステンレス製の自分のコップを取り出して、ふ、ふ、と息を吹きかけ埃を払い終わってから、階段横のレストランに持って行きチャイを注いでもらう。絶対に店のグラスでは飲まない。それからゆで卵を食べる前洗面所で石鹸を卵に付け洗い流した後、布巾で水気を取り去り卵の殻を剥く。

朝食後2階の何時ものシャワー室に何時もの時間、剃刀と石鹸を持って行き、1時間篭り満足した顔で部屋に戻ってくる。見ると頭が青々と剃り上げられている。12時までベットの上で読書をして時間を潰し昼飯に消防署通りを横切った所にある中華料理22番には入る。メニューは毎日変わらず野菜チャーハンとワンタンスープを食べる。そしてまた何時もの時間に何時ものジュース屋で椰子を飲み何時もの時間にパラゴンに戻り洗濯をしてシャワーを浴びる。それから昼寝をする。昼寝から目覚め読書で暇を潰し午後6時晩飯にまた22番に行く。メニューはミートチョーメンとワンタンスープを毎日変わりなく食べ続ける。そしてまた何時のもチャイ屋でチャイを飲み何時もの時間に部屋に戻る。適当に時間を潰し午後9時シャワーを浴び歯を磨き午後9時半から日課となっているその日最後の仕事である入念な地肌マッサージを行い午後10時眠りに着く。

ここまでインドの先生が説明し終わると先生は笑いながら今回は特別だよ普段ここまで神経質にはならないが足指の爪がカビに罹り薬を毎日欠かさず180日間飲み続けなければならない。下痢をしてしまうと薬が飲みづらくなるので特別慎重にしているだけさと言った。

先生は絶対に団体行動をしたことがなかった。食事に誘っても絶対一緒に行きたがらなかった。ある日皆で強引に22番に行きましょうと誘ったが断られた。仕方なく皆で先生の後を付いて押し掛けて行ったのだが、22番のおやじがメニューを先生に一様渡した。先生は見もしないでミートチョーメンと言うとおやじがワンタンスープと答え先生は笑いながら首を立てに振ったのを今でも鮮明に覚えている。インドの先生の説明はほんとであった。この時私は息ができないくらいに笑い転げてしまった。

なぜかこの部屋に来る西洋人はすぐに他の部屋に移って行った。よく観察してみるとインドの先生が陣頭指揮を執り目に見えない嫌がれせを行い追い出していたのであった。ある日全く善良そうな西洋人旅行者がボーイに連れられ部屋に来た。ボーイは先生の横のベットを進めた。その瞬間先生はその西洋人を睨み付け日本語で、なんで毛唐がここに来るんだよ毛唐はどこかに行け、行けと凄んだ。善良そうな西洋人はびっくりしてボーイにアナザルームと言い逃げ出して行った。インドの先生が先生良くやったねと上機嫌であったのを今でも鮮明に覚えている。

ある日の昼下がり部屋でボンが回っていた。インドの先生が老人から身の上話を聞きだそうと必死で頑張っていた。老人は飯を一緒に食いに行ったり、チャイを飲みに行ったり協調性は良かったのだが、チョーロンギで不具の大道芸人を見て以後、口が重く心を閉ざしてしまい自分のことを語らなくなってしまっていた。しかも英語ができるにもかかわらずできない様に装い周りの情けを惹こうと努めていた。インドの先生の努力もあり閉ざした心を老人は開きはめた。

時は大東亜戦争末期、老人が若き頃徴兵を身体虚弱で間逃れ広島のある民家の軒先で涼んでいた時の話である。主だった周りの人々は各自課せられた仕事のため外出中に起きた。とても暑いある日、野外作業中の老人は一人涼しさを求め付近の民家の軒先で涼んでいたらしい。

その時突然何かぴかっと光、とても大きなキノコ雲が当然目の前に現れ訳が分からなかったらしい。暫くしてその得体の知れない光とキノコ雲が収まったその瞬間、目に焼き付いた光景はこの世の地獄でもあり得ない様な血も凍る物であったらしい。

原爆であった。暫くの日々が過ぎ去った後分かったことは、老人が涼んでいた軒先付近の人々は、皆帰らぬ人であったらしい。もちろん老人が借りた軒先の人も一緒に野外作業していた人たちも老人の家族、友人もであった。

奇跡、超偶然、ちょうど台風の目の中にいたとでも言うのか。老人の涼んでいたその軒先だけが何故か偶然にも無事であった。老人は被爆していたが、その時まで何の病気にも襲われず生き抜いていた。老人は、その時まで戦場に行き死んでいった友人、原爆で死んでいった家族、友人、周囲の人々に対して、けして忘れ去ることの出来ない自分だけが生き残った罪の意識を引きずりその時まで生きてきたのであった。最後にチョーロンギ、サダルで見た不具の大道芸人、乞食を見た瞬間から、あの忌まわしい広島での出来事とダブって見え、鮮明に戦争の記憶の全てが蘇えり気が重く遣り切れない日々が続いていたと呟いた。もうこれ以上居ることはできないので日本に帰ると言い涙を流し僅10日間でインドカルカッタを去った。

老人が去ってから数日後インドの先生が帰国し、次に先生も久美子ハウスに旅立って行った。そして私も先生の後を追うように久美子ハウスに旅立った。

初めての一人旅でインドにたどり着き不安、緊張の連続が続いたが久美子ハウスでは、日本人ばかりから来る安心感で緊張の糸が解れ知恵熱に犯され寝込んだ。ある日の朝起きると同時に漏れそうになりトイレに駆け込みいきなり水便であった。胃が引き千切れそうな激痛が走りベットに戻ると同時にまたトイレに駆け込むこと数え切れなかった。そのうち吐き気も加わり前日の晩飯分がそっくりそのまま出てきた。胃が消化してはいなかったのである。トイレにこれ以上行けないくらいに衰弱しきりベットに寝転がるとすごい寒気が襲ってきた。他の日本人から体温計を借り測るとなんと40度近い熱であった。

昼過ぎあの先生がなんとマンゴを買って来てくれ皮まで剥いて食べさせてくれた。もう一度体温を測ったが相変わらず熱はそのままであった。その時ある同胞のおじさんが、これはやばいと言い久美子さんに医者の住所を聞き一人リキシャーに乗り医者を連れて帰って来てくれた。診察を終えるとインドは医薬分業のため処方箋を書いてもらった。診察代を払おうとするとその同胞のおじさんが気にするなと遮り、医者にありがとうと言い何十ルピーものチップと一緒に変わりに支払ってしまった。

医師の診たては環境の変化によるものでありさほど問題ではなくノンプロブレムであった。朝ベットの上で体温を測り医者が来るまでの間高熱で朦朧とする意識の中で母の顔が目に浮かび、こぼれる涙を必死で堪えていた。ここバラナシの安宿で訳の分からぬ病気で死んでしまったら親、兄弟に死に目を見せてあげることが出来ないばかりではなく、外国など全く無縁の世界に生きている親は死体の引き取りにこの地にどうやって来ればいいと言うのか。そんなことを考えているうちに自然と悲しくなり泣けてきたのである。そこに先生、同胞のおじさんの情けが加わり堪えていた涙が溢れ出してきたのである。処方箋を持ち近くの薬局で薬を買って来てくれた同胞のおじさんは薬を飲ませてくれ、泣かなくてもいい、もし病気が治らなければ俺が家まで連れて帰ってやるから安心しろと言った。これほど人の情けが心に沁みたことはなかった。
1週間ほどでなんとか下痢も止まり体力も回復した。ここ久美子ハウスの居心地は快適であった。毎日朝日が昇りはじめたころまもなく船が出ます、、船に乗る人は早く下に降りてきてください、、船に乗っている時、、手を出しているとほかの船に当たり手が壊れますので手は船の中に入れてください、、まもなく船が出ます〜、、と言う久美子さんの旦那であるシャンティーさんの流暢な日本語放送と言うか雑音が2階ドミの部屋のインターホンから聞こえてくるのだが。嫌でも目が覚めるのであった。

一度だけ船に乗ってみたことがある。ガンジス川の水は流れが速く水温はかなり低くひんやりしていた。色々な船が行き交っており、いつもいるガート(沐浴場)側を眺めた。すでにたくさんの人たちが集まっていた。川の向こう側から顔を出している朝日に向かってお祈りを捧げている人たちを目にして、宗教というものの重さを自覚した。

向こうの彼方、不浄の地にその船頭は行ってくれた。いつも久美子ハウスの屋上から眺め考えていた、あちら側には何があるのだろうか?人は住んでいるのだろうか?ある日の夜中、その不浄の地から人々の何か祈りを捧げる声が聞こえてきたことがある。何かと思い屋上から眺めるといくつもの焚き火の明かりだけが見えその祈りを捧げる声は延々と続いた。

次の日の朝、久美子さんに聞いてみるとなにか新興宗教の集会か何かが行われたらしく普段人は住んでいないということであった。不浄の地に降りてみたがそこにはなにもなかった。ただただ砂の岸が遥か遠くまで続いているだけであった。帰る途中川の中ほどで泳いでみたが、やはり流れは速く水が冷たかった。水上から不浄の地を眺め思った。これが三途の川なのかと、ならばこの船は三途の川の渡し舟ではないか、船に上がりちょっと向こうにあるガート側を眺め思った。あの火葬場から、くわしくはわからないが、荼毘にされる人、されない人、されない人はこの川に流されるずだ。また産湯に使う人、体を清める人、洗濯する人、荼毘されなかった人を食べる魚、それを食べる人。この川は生命の誕生からその終わりまでを何千年も前からそしてこの先ずーと見続けてくれるんだなと。人が、生命が、生きていた証、生命と時代の生き証人なんだなと。そう思った瞬間なんだか自分という存在がとても小さなものに思えた。ああこの川は自分というものが生きていた証になってくれるんだな、これから先自分という生命が終わった後も。来て良かったと思いはめたころ船が久美子ハウス下に接岸した。

毎日通っているガートのチャイ屋でガンガーを眺め物思いに耽っていた。日本人がこんにちは、はじめて来たんですがバラナシはどういうところですかときかれたことがある。私もはじめてであったが、カルカッタでインドの先生が言っていた、インドの中で一番インドらしいのはバラナシであると。そのとおりの返事を彼にしたことがある。来てみる前は実感がなかったが、今誰かに聞かれれば迷わずインドで一番インドらしい所はバラナシであると答えることができる。しかしここのチャイ屋のチャイは薄いが良い味を出しているなと思い作り方を観察していてわかったことだが、やはりそうであった、生命の生き証人であるこの川の水で作っていたのだ。匂い消しに生姜が使われていた。

バラナシに来て3週間が過ぎようとしていた。まったくの無宗教の私でさえもだんだん宗教というものに対して実感が感じられてきた。今まで宗教心などないのが当たり前であり、へんに宗教などの話をすること自体が日本社会では異常のように思われたその一員であったのだが。今となってはその逆に無宗教の日本社会が異常に思えてきた。無常と言う言葉さえ実感できるまできていた。常はなんだろうか?常などこの世に存在するのだろうか?(この世は常でないもし常が存在するのであれば絶えずこの世は変化し続けることだけだ。)仏陀の言葉だと思うが。私なりに考えた結果行きついたところは、この川もまた生命の証、生命の生き証人として変わりえない常であるはずだ。
END