タイ>古きよきタイ

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 1987年 チェンライでのこと。宿泊したゲストハウスの名は思い出せないし現存してるのか非かも定かではない。

 タイ国が乾期に入ったある日のこと。満点の星空の下ゲストハウスの庭先でメコンウイスキーをたらふく酒盛りしていたことがあった。その時のメンバーは私と他の同年代の日本人の男一人と、バンコックで知り合いくついた即席カップル「スウェデーン人の男とイギリス人の女」とゲストハウスの主人の計5人であった。

 飲み続けかなり酔いがまわってきたのだが、途中から私の意識は宙に飛んでしまい何の記憶も無くなってしまったことがあった。

 その無意識の時間的空間はなんと4時間にも及んでいたらしい。ふと我に帰ったときすでに午前2時をまわっていたのだが、他の日本人の「大丈夫?無事でよかったね。」という言葉で私はなんとか我を取り戻すことが出来た。

 我に帰った私はなにも覚えてはいなかった。ただ、メコンウイスキーの飲みすぎで、頭の上に鉛玉でも乗せられているかのような感覚といまにもゲロをあげそうな悪感が襲いかかっていた。

 私は「なにがあったの?俺なにも覚えてはいないんだけど?」とその日本人に聞き返した。彼がいうにはこのようなことであったらしい。

 庭先でメコンウイスキーを飲んでいると、私は心地よく酔っていて上機嫌であったらしい。飲み始めのころは、紳士的にイギリス人の女となにやら話をしていたらしいのだが、酔いがまわるにつれて私の接する態度がだんだんとずうずうしくなってきたらしい。

 そのうち、スウェーデン人の男が不機嫌になったらしいのだが、イギリス人の女は嫌がっている様子もなく、酔っている私の相手をしてくれていたらしい。ますます酒を飲み酔いを重ねていた私は、そのイギリス人の女に抱きつきキスをしてしまったらしいのだが、スウェーデン人の男は危機を察して、彼女の腕を引っ張り部屋に逃げてしまったそうな。

 その後も3人でしばらく酒盛りは続いていたのだが、午後10時を過ぎたころ私は無言のまま、突如外に向けて歩き出したらしい。日本人の男はやばいと思いゲストハウスの外に出た私を追っかけて連れ戻そうとしたのだが、私は彼の手を振り解き、無言のまま闇夜の彼方に歩いて行ったらしい。

 宿の主人、スウェーデン人の男とイギリス人の女のカップルと日本人の男は12時を過ぎても戻らぬ私を庭先で心配していたらしいのだが、午前2時を過ぎたころ、一台のパトカーがゲストハウスの前で停車した。警官3人が降りてきて、なにやら宿の主人に向かって話し出した。皆なにごとかと思いびっくりしていると、後ろの席から私が降りてきたらしい。

 10分ほど警官たちは宿の主人にことの経緯を説明するとそのまま署に帰っていたらしい。一件落着して皆部屋にもどったらしい。

 私は彼に引っ張られ自分の部屋に戻った。宿の主人と警官たちとのやりとりは彼によるとこのようなことであった。午前12時を過ぎたころ私はチェンライ署に押しかけた。かなり酔っていて前後不覚であり、なにやら「俺の日本人の友達が誘拐された大至急チェンマイの日本領事館に連絡を取ってくれ」とくだをまいていたらしい。警官たちは私の宿泊先を聞こうとしたが、酔っ払い相手ではらちが空かず、しばらく酔いがさめるまで待っていたらしい。2時間近く経過してどうにか私の宿泊先を聞き出すことに成功して私を送り届けてくれたとのことであったそうな。

 翌日昼過ぎ目の覚めた私はいやでも庭先でスウェーデン人の男とイギリス人の女のカップルと目を合わせることになり、昨夜の経緯を詫びた。イギリス人の女は気にしている素振りもなく、タイ語で「マイペンライ」といい、にこっと笑って頬にキスをしてくれた。スウェーデン人の男の方も笑っているだけであった。宿の主人はティーニームアングタイ「ここはタイ」「マイペンライ」「マァオ、、マイペンライ」酒の上のことだからといってくれた。

 昔タイはありとあらゆる面で実に寛容な国であったので、わけのわからぬ外国人が酔い警察署に押しかけても、なにごともなかったかのようにすんでしまったように、今振り返ると思うことが出来る。でもはたして、今現在のタイでその昔私がしでかした若気のいたりをだれか、他の日本人の男が犯した場合、当時のように「マイペンライ」で済むのか非かは定かではない。

 昔のふるきよきタイにチャイヨー「乾杯」

 A

 チェンライからメーサイをレンタルバイクを借り日帰りしたことがあった。メーサイの川のほとりにあったレストランで昼飯を食べ優雅にビールを飲んでいた。もう一本飲もうかと思い財布を確かめてみると、これ以上飲むと財布が底を尽きてしまいそうだった。貴重品はゲストハウスの部屋に置いてきていた。

 どうしようか?金欠では帰り道に不安だったので一瞬考えたが、1時間も走れば着いてしまう距離だと思い、思いきってもう一本注文した。ついでにタバコも買ってしまえと思いクルンチープを1箱買うと、5バーツ硬貨一枚だけが残った。

 夕刻時そろそろと思い帰宅の路についた。走り出してしばらくするとなんだか速度が落ちはじめてきた。やばいガソリンだと思いリザーブタンクに切り替
えてみると正常に走り出した。

 なんとかもってくれよと祈りながら走り続けていると、あとすこしでチェンライというところでまたも速度が落ちだしてきた。しかたなく国道の脇にバイクを停めた。

 そこには木作りの屋根をつけた村民憩いの場所があり老人たちが夕涼みをしていた。駄目押しでキックをなんどかしてみたが、やはり完全なガス欠状態でエンジンはかかってはくれなかった。

 どうしようか?ここからゲストハウスまであと何キロあるのだろうか?日が暮れるまでにバイクを引きずりながら歩いてたどり着くことができるのだろうか?そんなことを考えているとお先真っ暗になってきた。しかたなくタバコに火を点け途方にくれていると、憩いの場所で涼んでいた老人の一人がやって来た。

 タムアライユゥー「なにしてるんだ」とたずねてきた。タンクのふたを開けてゆすって見せた。空の財布を出して見せながら「ガソリンがなくなってしまった」と日本語でいい「パイ チェンライ マイミーサターン」と片言のタイ語を交えて説明してみせた。

 その老人は仲間の老人連にこっちに来いと叫びだすと4人の老人たちがやって来た。私の状況をその老人が説明してくれると、皆ポケットから小銭を取り出して私に施してくれた。50バーツ以上のお金であった。

 「コップン マーク カプ」とタイ語でいい「ありがとう、あしたかならず返しに来ますので」と日本語でいい両手をタイ式に胸に当て丁重にお礼をいうと「マイペンライ」はやく帰れといってくれた。

 翌日お金を返しにその場所に行ってみると、やはりおなじ顔ぶれがそろっていた。昨日の礼をいいお金を返そうとすると老人たちは不思議そうな顔をした。

 「おまえ、、ほんとに金を返しに来たのか?変わった奴だな」とでもいいたそうな顔つきであった。 「マイペンライ」といい最初お金を受け取ろうとはしなかった。

 むりやりにお金を押しつけるともう一度お礼をいい、再びゲストハウスまでの帰路を走った。

 昔のふるきよきタイにチャイヨー「乾杯」

 B

 1988年のある日の夕刻 排気ガスにまみれながら市内のペプリン通りを歩きパトナムの安アパートの自室にもどった。旧大丸からペプリン通りに歩いていくと手前にどぶ川がある。そのどぶ川沿いに5階建で禿げ茶色の建物が現存している。

 夜洗濯物を屋上に干しながら排気ガスに汚染された空を見上げたり、真下のどぶ川を見下ろしたりしていると、まるで神田川の世界を連想させてくれそうな居住環境であり気に入っていた。

 セメントで固められた小さな水槽に張った生ぬるい水をプラスチックの柄杓ですくいながら水浴びを終えると、天井に吊られたプロペラ式の扇風機で風を送り、床にひいた茣蓙の上で涼みながらあと4日かと考えていた。

 妹の結婚式のため一時帰国をしなければならなかった。バンコック 日本間の航空券はOK済みですでにその日入手していた。あとは帰国日を待つだけだと思っていた。

 パスポートと航空券を箪笥金庫に保管しなけらばと思い、脱ぎ捨てたジーンズの中に手を入れると航空券は財布の中にあったのだが、パスポートが、無かった。当時の日本国旅券は真っ赤な色で、現在の旅券に比べはるかに大きかった。他国の旅行者が持っているどこの国の旅券よりもはるかに大きかった。それが原因で持ち歩くとき苦労した。サイズ的な問題でポケットに入りきらないため、ジーンズの尻のポケットに上部をはみ出させたまま突っ込んで、歩行していた。

 当時タイには悪名高きタックスクリアランスなるものが存在していた。1月1日から12月31日までの間に合計で90日以上滞在した外国人は、仕事、旅行に関係なく全員が、納税義務はないものの、カオサンから王宮に行く途中に存在していた税務署に行き、職員と交渉して、タックスクリアランスを受け旅券の最後項にスタンプをもらわなければ出国させてくれなかった。また180日以上滞在した外国人は全員が税金を払わされ、スタンプの他に納税証明書をもらわなければ出国できなかった。

 薄汚く、怪しげな西洋人たちが「おれは、ただ、タイが好きで旅しているだけだ。一切働いてはいない。本国からもってきたお金を使っているだけだ」などと強気な態度で英語を押し通し、職員とやりとりする姿がいやでも目に付き何時行っても満員御礼であった。

 まともに働いていますと申告でもしようものなら、先進国の人間なら最低でも月5万〜10万バーツはもらっているはずだ。だからその1割として5万バーツから10万バーツは払えという皮算用で攻めてくる。それではたまらないので、現地採用のもぐりで働いている外国人はその日だけ、わざと汚い服装で旅行者を偽り難を逃れようとする。

 その演技で切り抜けると800バーツから2000バーツくらいの納税で済まされることができた。係官により異なるのだが、合言葉は女性職員は絶対に避けろであった。なぜなら、この国では女の方が真面目で勤勉で責任感が強いので、そのぶん国家に貢献する。男の職員の方は「マイペンライ」精神が旺盛で融通がきくの論理であった。たんに旅行しているだけの旅人もおなじように払わされたので、やはり旅行者にとっては辛い制度であり、私も何度払わされたことかわからない。

 その日私は午前中悪名高き税務署に行き職員との攻防戦をすませ、その足で代理店に行き航空券を受け取ったのであった。

 翌朝開館を狙い朝一番で日本大使館を目指した。超満員の2番の市バスの中で汗まみれになりながら真剣に考えていた。旅券の再発行は時間がなく絶対に間に合わない。事情を説明して帰国証明書を発行してもらうとして、ビザ番号は控えてない。納税証明書とスタンプはどうしようか?「こちら側に弱みがある状態での再度の職員との攻防戦」をどのように切り抜ければよいのか?

 スクムビットソイ21の付近で市バスを降り大使館に到着した。領事部の館員に事情を説明すると、しばらくお待ち下さいといわれたので待っていた。

 10分くらいしたころであった。「あなたの旅券は{もう警察署の名は忘れた}からファックスが来ており、署に保管されている」とのことです。「ソムチャイという男の人が、昨日午後5時にインドネシア大使館の前であなたの落ちていた旅券を拾い帰宅途中に自宅付近の警察署に届けた」とのことです。「ソムチャイさんはインドネシア大使館の職員」とのことであり「ほんとに運がよかったですね。私はここバンコックの日本大使館勤務3年ですが、こんなことははじめてですよ」といわれた。

 「ちょっとまってくださいね。タイ人職員に署の方に電話させ住所を確認させますから。」

 しばらくして館員はなにやらタイ語で書いたメモ用紙を私に差し出しながら「え〜とですね。ペプリンタンマイを東に行くとラムカムヘン通りと交差しますが、そのすこし手前あたりらしいです」といわれた。私が「市バスで行くにはどうすればよいのでしょうか?」と聞くとタイ人職員が「ここから、ペプリン通りまで歩きラムカムヘン通りまで行く市バスに乗り、クラパオ「車掌」にこのメモ用紙を見せてください」といわれた。私が「ありがとうございます。これから行きますので」というと館員は「ソムチャイさんには菓子箱でも添えてお礼に行ってくださいね」と親切に教えてくれた。

 警察署に到着した。大使館から連絡もあったらしく署長が上機嫌で「君はほんとに運がいいね」と館員と同じことをいった。「本来ならばね日本のパスポートは高く売れるので、、戻ってはこないところだよ」と笑いながら「ソム
チャイさんのところはね。ここのソイを100メートルほど行くとほら、あそこに赤い屋根が見えるだろう?そこだよ」と教えてくれた。

 「コップンマーク マーク」と署長にお礼をいい、近くの駄菓子屋で適当なお菓子を箱に詰めてもらい、ソムチャイさん宅に行くと品のよい中年のご婦人が応対してくれた。「主人は勤務に出ており留守です。間違いなく主人に伝えておきます。わざわざありがとう「コップチャイナ」と微笑んでいた。

 昔のふるきよきタイにチャイヨー「乾杯」

END