タイ>スワニー北京飯店
こんちはスワニーお久しぶりだね。あれれいやに空いてるね??
あの頃とても多くの旅人がスワニーを訪れ店は何時も満員だったね。
スワニーは何時もとびっきりの笑顔で迎えてくれたっけ。あさりスープ、豆腐スープ、トンカツあるよ。何にする?でも君の薦める物は何時も少し危なかったね。

とても多くの旅人がスワニーのお世話になったはずだね。ある旅人は旅費が尽き日本からの送金待ちで付けで食わせていたよね。ある時はトラぶった旅人の通訳として。ある旅人にはタイ語の先生として。酔って大声で下ネタに耽っているときのスワニーの不機嫌な顔今でも忘れてはいないよ。

2月2日に山田まりやが来た時書いて行った色紙が!!。そし て新たに新メニュー「まりや丼」が登場。これにより名が売れて客が増えるといいね。

メニューも昔のまま伝統を守ってくれているんだね。そして味もあの頃の秘伝の味をそっくりそのまま。ご苦労様です。何時までもこの伝統、秘伝を守り抜き営業を続けてくださいね。ではまたお便りします


















北京飯店に行ってみた。ジュライの前から右に行きロータリーから交差している通りを渡り、まっすぐ進みまたロータリーから交差しているソイを右に曲がるやたら運送会社が多くトラックを止め労働者が真っ黒に日焼けしながら、全身汗を噴出して荷を積み降ろししていた。歩道は荷であふれかえり足の踏み場もなく通り過ぎるのに一苦労またトラックの横を通るのも頭上から荷が降ってきそうで何か不安であった。そのごった返した運送会社をなんとかくぐり抜け少し進むとスワニー北京飯店の看板があった。店に入るとだれもいなかった。怪しげな日本語でなんにするか?豚カツ?トーフスープ?あさりいため?次から次へとメニューを喋り捲る。これも後で分かったことだが、彼女のすすめる品は危ないらしかった、売れ残りの古い物から進めて行くのであった。当時の歩き方にはたしか楽宮旅社下に北京飯店があり、日本食もどきを食わせる店でスワニーという30歳くらいのおばさんがやっていて、片言の日本語をしゃべり昼も過ぎた頃に楽宮旅社の上から数人のヒッピーたちが集まり飯を食いながらわいわいがやがややっていると書かれていたような気がする。私はそのヒッピーという言葉の人たちを早く見たかった。早く現れないかと思いながら店の中を観察した。椅子とテーブルが4組ありテーブルはもう何十年使っているのかところどころ禿げ上がっており熱か何かで変形してでこぼこであった。壁はタバコのヤニか油か何かで黄色く黄ばみあるメニューは剥き出しのまま手書きで書かれやはり黄ばんでいた。お世辞にも達筆とは言えない日本語で無造作にチャーハン、豚カツ、トーフの味噌汁、オムレツ等メニューだけは充実していた。あるメニューはやはりあやしげな日本語で記され額縁に収められていた。やはり味その他は抜きにしてメニュー数だけは充実していた。

厨房に向かって左壁に色あせた額縁に美しい京都という題名の写真が収められていた。着物を着た美女が撮影されていてやはり額縁中の写真も色あせていた。スワニーにおばさん日本に行ったことあるの?と聞いてみた。一瞬むっとした顔になったが、あるよ、2月に行ったよと答えた。どうもよく日本に行っているみたいであった。やがて注文した飯が来た。食器は清潔感に欠けており一口食べてみたがけして美味いものではなかった。なんとか口に入れて胃袋に流し込んだ。ハエが、歓迎のために何回も来てくれた

誰かが置いていったのであろう古い日本の週刊誌、雑誌、新聞にエロ本が置かれていた。黒板があり旅人の伝言板に使われていた。見ると日付とともにだれだれさんへ、ネパールに行きます、タメルの周りにいます。だれだれさんへ、インドから3日前戻って来ました楽宮何号室にいます。だれだれさんがインドから戻り、A形肝炎に罹りました、ゼネラル病院何号室に入院しています。AIUの保険に入っていたため1泊1000バーツの個室に入り快適な入院生活を送っています。昨日見舞いに行ってきました。もしインドから戻って来ているのなら一度見舞いに行ってやってくださいなどと書かれていました。


そのうち誰かが入って来て私を見るなり挨拶をしてきた。私も挨拶を返した。彼は今日はどちらから来られたのですか?と聞いてきた、私は日本から着たばかりです初めてなんですよ一人旅はと答えた。彼はそうですかそれはこれから先楽しみですね?私は30数カ国回りましたがやはりタイはいい、飯も最高、物価も安い、しかも清潔、衛生状態も言うこと無し。海あり、山あり、自然も沢山あります。しかも人当たりがよく、治安も申し分ない。チェンマイに行けば美人が山盛り、グラスも品質がよく馬鹿安い。タイは最高ですよ。この世の楽園とはタイのことを指す為にある言葉ですよ。私はインドから3日前に戻ったのですけど、あと2ヶ月ビザが切れるまで楽宮にいます。そして次はインドネシアに行きます。その先はまだ考えていませんよ、いや〜タイはやはりいいインド人との戦いは疲れますからね。私は日本を出てちょうど半年になります。インドに5ヶ月いました。カルカッタから戻ったのですがちょうど雨期で大変でしたよ。一雨降るとサダルストリートは水浸しになり、そこに太陽が降り注ぎ訳の分からぬ病気が蔓延しますからね。私はもう1ヶ月下痢が続いていますよ。体重も10キロ減りました未だ下痢が止まりません。保険に入ってないものですので、医者には行っていません気長に治すつもりです。よやはり保険に入っておけばよかったと言い延々と旅の話が続いた。

彼の止まらぬ放浪記を聞いていると一人、二人と人が集まりだしてきた。目と目を会わせ軽い挨拶をしながらテーブルに座り込んできた。みな人懐こく悪い人たちではなさそうであった。破れたTシャツを着てる人、汗で黄ばんだシャツの人、真っ黒に日焼けして髪は伸び放題おまけに尻に穴の開いた半ズボンの人など、服装には何の興味も格好もつけず、持たず、むき出しの生きるパワーだけが伝わってきた。どうも日本で働きながら普通に暮らしている人たちとは、発する精神パワーとでもいうものが違っていた。当時日本人の多くが描いていた旧共産圏の抑圧されすべてを諦め、死んだようにまた眠ったようになんの楽しみも喜びもなく日々の暮らしを送る人々のイメージがそっくりそのまま、昨日日本を出る前まで同じ一員であった日本社会で普通に暮らす人々とダブって見えた。そしてここにいる見知らぬ旅人が、その暗く絶望的な社会体制の国から自由な西側陣営への亡命成功者にも見えた、東からベルリンの壁を乗り越え西への入国を果した成功者にも見えた。

そんなことを考えていたら自分もその成功者のうちの一人なんだなと思えてきた。日本でなら初対面の人に対して絶対にありえないであろう、同じ勝ち得とった共通の喜び、親密感、連帯感のようなものを感じた。逢い、すぐにこれだけの親近感が持てるというのはほんと不思議であった。

旅、女の話で盛り上がっていた。徐々に人も集まりだして、知らぬ間に全席満員になったテーブル越しに話が飛び交う。ある人はインドでの乞食、物売り、その他いかがわしい人たちとの格闘の日々を回想するように話始めた。またある旅人は、アフリカ帰りなのか、鋭い目つき、自信に満ちた顔つきで、淡々と今まで放浪した国での自伝を語り始める。皆が皆持ち合わせている精神エネルギーを力任せに発散させているのである。観察しているとあまりお互い人の話には耳を傾けず、思い思い自分のことだけを話していた。国内でならこれでは会話にならないのであろうが?ここではこれで立派に会話は成り立っているのだ。女子冷機茶室、誰かがこの言葉を口にした瞬間、それまでの一方通行的な会話に終止符がうたれ、全員がこの言葉により会話が全員参加に変わっていった。


私はこの時はじめて存在を知ったのであるが、なんでもかなり楽しいところらしかった。長期滞在の古株が話の指導権をにぎりリーダーシップを発揮していた。私も含めて初心者はただただ聞き手に回り、早く連れてってほしい一身で聞いていた。そして午後3時を回った頃誰からともなくそろそろ出かけようかという話になった。その時、一人のある日本人がやってきた。彼が来た瞬間、それまで大いに盛り上がっていた日本人は、みな一斉に口をつぐみ、下を見る者、古い雑誌を読み始めるがよく見ると本が逆さまになっている者、あるいはお金を払い帰ろうとする者、急にしらけてしまい一種異様な空気に包まれた。

その日本人はいきなり喋り始めた。見ると他の旅人とは何かが違っていた。この旅人が集う場所には不釣合いな襟の付いた上等そうなシャツ、スラックスのズボン、革靴そしてゴッツイ腕の手首に巻かれた金のブレスレット、その手首を回しながら、ズボンの尻ポケットから、札入れを取り出しスワニーになにやらタイ語で話し掛けながら無造作に見せびらかした。そしてあきらかに逃げ出そうとしていたこの場の旅人にもその札入れを見せびらかしながら言った。いや1日紫色一枚使うのを目標にしているが、ヤワラーでは使い切れないよと言った。その札入れは紫色の500バーツ札ではちきれんばかりに膨れ上がっていた。そしてテーブルに座り込み自分の自慢話を始めた。スクムビット通りのアパートに住んでいてかなり金持ちそうに見えた。通称金ブレスレットの男で、ヤワラー界隈の日本人の間では超有名人であった。毎日ヤワラーに遊びに来ているらしく、ここに3時半が集合時間であり冷機茶室に行くのだと言った。もうだいぶ人数が集まったからそれでは出発しようかと言い、いきなり陣頭指揮を執りはじめた。私は初めてであったのでもちろん喜んで付いて行った。世の中異国の地でこんな親切な人もいるのだなと思いなんだか楽しくなってきた。他の常連はよく見ると嫌々、諦めた様子で、どうせ目的が同じなので一緒に出発した。


女子冷機茶室

北京飯店から歩いて約20分。ジュライホテルを通り越し台北ホテルのすぐ脇に入り、わけのわからぬ迷路をいくつも通り抜け金ブレスレットの男の陣頭指揮で、ある建物のエレベーターの前にたどり着いた。着くまでの間、谷 恒生バンコック楽宮ホテルの中のヤワラーの迷路を一人歩きできるようになって初めて周りの日本人から一人前扱いされるようになると言う文書を回想し心ウキウキしながら後を付いて行ったのを覚えている。しばらく待っているとエレベーターが開き数人のタイ人が出て行った。金ブレスレットの「男がさあ乗ろうではないか」と言い先頭を切った。皆彼の後に従い乗り込んだ。エレベーターの中には、よく太った架橋の中年のおやじが木の椅子に座り乗っていた。短パンをはき上半身裸であった。よく見ると肌が汚く背中に何かの吹き出物が出ていた。このおやじはエレベーターボーイであった。

4階でエレベーターは止まった。彼に従いエレベーターを出てそのまま廊下突き進むと、その瞬間はちきれんばかりの笑顔で美女が「OK」と叫んだ。するとどこからともなく「OK」と男の声が聞こえ、痩せた半ズボンの架橋のおやじがどこかの部屋から出てきた。この冷機茶室のやり手爺通称OKおやじであった。OKおやじは彼の顔を見るなり「オオサワディー」と言い我々を茶室部屋の一室に案内してくれた。部屋は中央廊下によって左右にわかれていた。20部屋くらいはあろうか、中央の廊下に胸に番号札を付けた天使たちが入り乱れ客の入っている各茶室部屋を覗き込みながら自分を売り込んでいくのであった。約3畳の部屋はビニール製のシーツで覆われた木製のベットがあった。ベットの下に痰壺が置かれていた。小さなテーブルの上には、やかんに素焼きの急須と素焼きの電気コンロ。そしておぼんの上にはとても小さな素焼きの湯飲みがいくつもあった。OKおやじがやかんを持って外に出て行き、しばらくするとやかんに水を入れて紙に包まれたお茶葉と一緒に持ってきてくれた。OKおやじは素焼きの電気コンロの上にやかんをのせると、コンセントをコンセント口に差し込んでくれた。部屋はクーラーが良く効いていて少し肌寒いくらいであった。高温多湿で日中何もしなくても汗が滲み出てくるバンコクで、ここはまるで娑婆から隔離された別世界のように感じた。部屋の中は総勢7人びっしりと詰めあいベニアの壁にもたれ座り込んだ。金ブレスレットの男が冷機茶室の説明を自慢げにしてくれた。

「一部屋20バーツでその中にはお茶代も含まれている。7人で20バーツの部屋代を人数割りすればそれでよく1人で来ても、10人で来ても部屋代は20バーツと変わらず人数が多ければ多いほど得であること。天使たちは番号札の色で値段が違い、赤70バーツ、青100バーツであること。コンドームは1個10バーツ取られるが、街中の薬局、雑貨屋だと3個入りで10バーツで買えるのでなるべく街中で買って持ち込むように。チップはサービスが悪ければ払う必要はなく、よければ相場は20バーツでありそれ以上払ってしまうとチップの相場が上がってしまい日本人が甘く見られてしまう。またタイ人にも迷惑をかけることになるので絶対に払わないように。」

彼の講義は続いていたが、天使たちが我々の部屋に売り込みに訪れた。天使たちは皆、明るく、当時の日本の風俗嬢のような一種独特の後ろめたさ、一目でその筋の職業と分かるような匂いもしなかった。素朴な田舎娘と言ったところでなにか土の匂いが漂い街中を歩いていれば誰も彼女たちの職業を当てることなど不可能なようにも見えた。服装も地味であった。肌の色も白く日本人と変わらない。その天使はタイ語で話しかけてきた。私は「サワデーカップ、サバイマイ、クンチュアライ、アーユータオライ(今日は元気ですか?名前はなんですか?何歳ですか?)覚えたての知ってる限りの単語を並べた。」それ以上の会話は続かずその天使を膝の上にのせて、抱き合ってるだけであった。金ブレスレットの男は達者なタイ語を操り天使を膝の上にのせながら楽しんでいた。そのほかの日本人も思い思いのまま自分好みの天使とある者は抱き合い、ある者は膝の上にのせながら自分のタイ語レベルの範囲で楽しんでいた。

金ブレスレットの男が茶室遊び心得の術を話し始めた。「ここタイでは日本の風俗のような時間、サービスなど管理された店側主導的なものではなく、選ぶ主体は客側にあるんだよ。サービスも店規定のマニアルなどはなく、いかに自分が天使をうまくその気にさせ最高のサービスを引き出させ楽しむことができるかがすべてなんだよ。時間的規定も無制限であり、売込みに訪れた天使の中から気に入った子を選びすぐ事に及ぶのではなく。品定めに30分40分と会話とスキンシップを交えながらじっくりと時間をかけ相手の器量を見抜きつつ相手のその時の心理状態が単に職業的な売込みであり本音の部分では嫌々ながらの仕事なのか、それとも本音の部分でも仕事を自分の意思でやる気満々なのかを観察しながら、やる気満々と判断できたならば、自分自身の興奮が最高潮に達した頃を見計らいそれから事に及ぶのが茶室遊びでなんだよ。千利休ではないが茶道の道と同じで奥の深い物であるんだよと言った。相手との相性、器量、性格、その瞬間の心理状態、健康状態全てを30分40分間の戯れの中で見抜き把握しながらもし納得いかなければ、廊下を徘徊しているほかの天使を選び直し品定めをやり直せばいいんだよと付け加えた。」

素焼きの電気コンロの上のやかんはとっくに沸騰しきっていた。ある天使が、素焼きの急須にお茶葉を入れ素焼き電気コンロの上のやかんのお湯を注いでくれた。お茶葉の紙包みを器用に切り裂き、とても小さな素焼きの湯飲みを一つずつ包みながらお茶を注いでくれた。最初に人数分のとても小さな湯飲みに注いだお茶は、すぐおぼんの上にその湯を捨てる。もう一度注ぎ直しそれを口元まで運び飲ませてくれた。金ブレスレットの男の講義は続いていた。「茶室にいる天使たちは北タイのチェンマイ、チェンライ、ランパーンあたりの農村から来ているので肌が白い。彼女たちは親の借金を背負っている孝行娘であり。テレビ、冷蔵庫、オートバイ、家などを買う資金としてまた弟、妹の学費として、親の病気治療費として親が元締めから前借する。それを娘が年季奉公することで借金を返済していく。年齢は〜歳から20歳くらいまでであった。この手の年季奉公は北タイの村々により異なる。ある村では年頃の娘は村中年季奉公に出すのが当たり前であり、ある村では一切させない。したがって出身地の村名を聞けばタイ人は分かるらしい。そして年季奉公に出た彼女たちを村では、幼馴染や許婚などが首を長くして帰りを待っており、村長の息子と結婚することも当たり前のようにあるらしく、このこと、事態はなんら恥ずべきことでもなんでもなくごく普通の職業と変わらず性に関しては実に大らかな国なんだよ」との講義であった実際彼女たちを見ていると後ろめたさなどは一切なく自分が家族を支えるために働いている姿に誇りすら感じた。

金ブレスレットの男の講義は延々と続き時は流れていた。その間に、何人かの日本人が事を終えていた。私もそろそろと思い部屋の入り口の上にあるスイッチを押した。ブーという音が鳴る。OKおやじが「OK」と言いながら部屋に入ってきた。このスイッチの音こそが、これからだよと言う合図であった。OKおやじは117と番号を言い別の部屋に案内してくれた。水の入ったソーダビンと釘をその天使に渡し出て行った。117の天使はドアーを閉めドアーの内側に付いている丸い金具に釘を刺した。これが鍵であった。他の日本人が別の部屋で事に及んでいる時知ったのだが、最中の部屋は入り口上の赤いランプが点灯していた。タイ人の性文化が何回か通っているうちに分かってきたのだが、タイ人はわりと淡白でありほとんどマグロ状態で受身的であった。事を終えた後天使がコンドームをはずしソーダビンの水で洗い流してくれた。痰壺はその水を捨てるための代物であった。

金ブレスレットの男の講義はまだまだ果てしなく続いていた。「もともと冷機茶室は架橋の隠居した老人をもてなすために作られた物なんだ。だから架橋の町ヤワラーのあっちこっちにあるのさ。若き頃裸一貫でタイに流れ着いた架橋がわきめもふらずに働き商売を始め財を成し、跡目を息子に譲った老人が残り少ない日々をひそかな楽しみとして生きるためにね。」そういえば現地の客を観察していると昼間から冷房の効いた部屋でお茶をすすりながら、老人たちが中国語でなにやら四方山話にふけっている姿ばかりが目に付いた。15日と月末だけは月に2度のタイ人の給料日であり、給料日後の日曜日だけはどこからともなくタイ人の労働者が集まりビールを飲み大判振る舞いをしていた。その他の日は日本人と架橋の老人だけだあった。

OKおやじが仕切る部屋は10部屋くらいありその8割が日本人であった。ある者は1人で、またジュライホテルか楽宮旅社か北京飯店で知り合い皆意気投合して誘い合わせの上、部屋を借りお茶をすすり合っていた。また他の部屋の日本人同士との交流も盛んに行われていた。他の部屋の者が他の部屋を訪問して会話が弾んでいた。天使たちに関する情報交換から旅の情報。今ニューヨークで皿洗いやキッチンヘルパーはいくらになるのか。急激な円高によって今やアメリカよりも日本で稼いだ方が率がよいのではないのかとか。日本ならば、配膳、リゾートホテルのレストラン、高速道路のサービスエリアのレストランはいくら稼げるかとか。自動車の期間工は仕事がきつい割には率が悪いとかの仕事に関する情報交換とかまで。インターネットも情報ノートもなく、口伝だけが頼りの時代に世界中の情報を交換し合う旅人たちの交流の場所としての要素もかなりの割合であった。初心者から百戦錬磨の長期旅行者。夏休みを利用した学生、教師や公務員などの短期旅行者。単位を全て取り終わり就職も決まっている卒業旅行者。就職先が優良企業から国政を司る国家機関まで将来日本国を背負って立つ若きエリートの卵など多種多様な人々が集い旅先での垢と埃。またきつい日本での社会生活で病んだ心を治療。、命の洗濯と一時の心の安らぎを求め。慰め合い、励まし合い、またそれぞれ異なる人生の目的地に旅立って行ったのであった。

エレベーターで昇り、OKおやじがいる女子冷機茶室。誰が呼んだのか人呼んでOKおやじのエレベーター茶室。先輩から後輩へ受け継がれてきた日本人ご用達のエレベーター茶室。残念ながら現在、どうなっているのかさえ定かではない。今も時々ジュライ界隈でやり手爺を引退して、物売りをしているOKおやじの姿を見かけます。その都度に、あの頃営業時間を終え夜も深まった頃にジュライホテル前の日本人の溜まり場であった屋台のコーヒー屋に出向いてはお店で働く天使たちの勤務状況を客である日本人から聞いて回っていた勤勉なOkおやじの姿が鮮やかに蘇るのですが。OKおやじは目で訴えます。あれは遠い昔のことよ、霞を食っては生きてはいけない。お願いだから関わらないでくれ、話しかけないでくれ、知らないふりをしてくれと。だから私もまったく知らないふりをして通り過ぎていきます。

「いや、いや。ほんとに、、その昔。タイには世話になりました。あの頃の感謝の気持ちは忘れてません。

珍 道中

END