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 一度は社会復帰を誓い帰国したにもかかわらず、わずか2年で挫折してしまい、 96〜97年の旅に出てしまったのでした。

 今度こそはと固く心に誓い97年帰国したのでありますが、その誓いもわずか2年たらずで、もろくも崩れ去ったのでありました。

2000年2月初旬、ある国内の地方空港を早朝出発したアシアナ航空はソウル経由で、現地時間午後7時過ぎバンコックに到着しました。
ず、わず
   飛行場の前の大通りに出た私は迷わずに、タクシーをとめ、運転手に。ウォンイェンジーシップソーンロングレムタイペイ「台北ホテル」と告げました。

 台北ホテルに到着し、受付を目指して歩いていると受付横のロビーに何人かの昔懐かしい面々が顔をそろえていたのでした。その顔ぶれを目にした私は不思議な安堵感を感じたのでした。「毎度、今年も顔を合わせることができましたね!昨今不景気の煽りを受け、、一人、二人とおなじみの顔ぶれ連中が、減ってきてます」よと声をかけてきたのでありました。

 ビザぎりぎりの30日間ヤワラーを堪能して、さて今回はどこに行こうかと考えていました。急ぐわけでもなし、あてもなし、ゆっくりと決めればいいやと思い、だらだらとした時間を費やしていました。

 そんなある日の夜サンチャンのところでビールを飲んでいると、懐かしい顔ぶれの一人が、パタヤから戻ってきました。なんでも最近東欧にはまっているとのことでした。

 彼が言うには、ヨーロッパでありながら、物価が安く、白人国家でありながら、西欧人のような傲慢さもなく、人々は素朴。チェコはビールが安くて美味い、プラハで、サラミやチーズをつまみに飲むビールは最高。ブタベストは物価はタイ並み、品質は先進国並み。実によいところらしかった。

 酔いがまわるにつれ彼の話は弾みがついていった。白い妖精で有名だったあのコマネチを産出したルーマニア、ヨーグルトで有名なブルガリアはどろどろしていて穴場らしかった。ポーランドや旧ユーゴスラビアの国々、国名をつぎつぎに挙げながら「もうすぐに通貨統合で東欧諸国も物価が上がってしまう。それにつれ、発展してしまうことは間違えない。そうすれば、人々の素朴さも失われてしまい、西欧とかわらなくなってしまう。一刻も早く行っておくべきだ」と言い張った。ただ今は真冬で寒いので、せめて5月あたりまでまったほうがよいと付け加えた。

 どうせここから、一度はプノンペンに行かなければならないので、それなら、プノンペンから、ヨーロッパまで陸は続いているし、なんでもベトナムのビザが4月から出入ポイントの申請記載がなくなり、普通の国のように旅ができるらしかった。ベトナムに入ってしまえば、ハノイから北京まで国際列車で行き、後はシベリア鉄道でロシアまで行けば、その先はヨーロッパ。アフリカ、インドなどにくらべ、環境的にも品質的にもはるかに楽であり、なによりもこのコースを行くことによりヨーロッパが暑くなる夏まで有効的に時間を潰せることになる。あとはロシアのビザだけが問題だった。彼が言うには北京でのロシアビザ取得が難しい状態らしかった。

 アジア中心に旅してきた私にはヨーロッパは未知数であった。もともとそれらの国々に対し興味じたいがなかったし、なによりも先立つ物「物価=お金」の問題が高い障害になっていた。が物価の安い東欧という国々の存在と子供のころから興味のあった、あのソビエト連邦が崩壊して、高い仕切りになっていた、鉄のカーテンが幕を降ろしてしまったことにより、より身近になっていた。これは一石二鳥だなと思った。

 もともと人の話にのりやすい、単純な私はいとも簡単にこの話にのることを決めてしまったのでした。唯一気がかりなロシアビザ取得問題は「どうにかなるだろう」と考えプノンペンへと旅立つことにしました。

 当日 毎度恒例であった、台北ホテル横の祠に願を掛けてから旅立ったのでした。

 ヤワラーから→プノンペン→ベトナム→北京→ウランバートルからシベリア鉄道で→モスクワ。モスクワから国際列車で→エストニア。バスでエストニアから→ラトヴィア→リトアニア3国。さらにバスで→ポーランド。ワルシャワから国際列車で→プラハ→ウイーン経由でブタベスト→クロアチア「スプリットからバスでドブロニック」。バスでドブロニックから→ボスニア・ヘルツェゴヴィナ→ベオグラード。ベオグラードから国際列車で→ブルガリア→ルーマニア。ブカレストからバスで→イスタンブール。イスタンブールから飛んで→バンコック。

 ヤワラーからイスタンブールまで陸路で行けたことに深く感動させられました。「陸は続いている」とね。


 東欧見聞録
なにもないのがヨーロッパのあの落書きは、やはり間違っているのではと思いました。プラハの「名を忘れたあの何とか橋」実に歴史を感じました。情緒たっぷりだった。石畳の道には思い伝統も感じたな。無駄を省き物を大切にする心、歴史をできるかぎり子孫のために残しておこうとする心が、ヨーロッパの町並みそのものであるとも学ばされた。

「民の富」と言う名の貯水場には蓄えがまだ十分あるのに、蛇口を閉めきり、底を尽いたバケツの中の乾いた雑巾からどのように水を搾りとろうかと熱心に考えるヨーロッパ。「民の富」と言う名の貯水場はすでに底を尽きているのに、さらに「血」と言う名の貯水場から盗水してまでも蛇口を開け放ち、バケツに水を垂れ流す。さらには、バケツから水が溢れ出て、その水は意味もなく、どこかの彼方に消え去ろうとしているのに、太りきった雑巾を手にし、水の搾りが悪いなと嘯く日本。一度彼方に消え去った「民の富」と言う名の水は、けしてもとには戻らない。

これからはEUの時代が来ることを確信したのでありました。
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