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ウランバートル滞在も25日が過ぎようとしていた。ある日の午後、タチアナとい名のロシアン美女が経営する市内の代理店に、ロシアビザを受け取りに行った。ビザ取得のため、20日間足止めを食らっていたのであった。ロシアのビザは別紙になっていて、顔写真が貼られており、すべてが、キリル文字で記されていた。滞在日数は28日間であった。「ロシア入国後24時間以内に外国人登録をしてください」と彼女は言った。「はあ?国境入国後、モスクワまで、3泊4日。列車内で登録できるのですか?」と私が尋ねると「列車内ではできません」と答えた。「ではどうすればよいのかな?」と私が聞き返すと「理由が理由だけに、大丈夫です」と彼女は呟いた。 2000年7月 ウランバートルを出発したモンゴル車両はロシア側にたどり着いた。この国はまずロシアンカスタムと言いながら、職員が、用紙を渡してきた。すべてキリル文字解る筈もない。次にロシアンイミグレーションと言いながら、やはり、キリル文字で書かれた用紙を職員が、渡してきた。悩んでいると英語のわかる職員が、コンパートメントに来て口答で英語に訳す。何とか書き終えるとカスタム職員はカスタムカードをイミグレ職員は出入国カードとパスポートと別紙のビザ書類を別々に回収に来た。 それからイミグレ職員が、出国カードとパスポートと別紙のビザ書類を返却に来た。別紙のビザ書類と出国カードにスタンプが、パスポートの方は、なんと最後項にスタンプが押されていた。「余談だが、ベトナムの入国スタンプは最前面の追記項に押された」カスタムカードは待てど暮らせど、来ることはなく列車は、モスクワを目指して走り出した。あれ?と思い、他のコンパートメントの西洋人に聞いてみたが、誰もカスタムカードをもらった人はいなかった。 不審に思い、モスクワに到着すると、その足で、日本大使館に行った。大使館員の説明はこのようなものであった。「よくあることで、わざと入国時に、カスタムカードを渡さない。各国境間のカスタム職員たちによる緊密な連携プレー」だということがわかった。館員はさらに、細かく説明とアドバイスを親身になってしてくれた。「この国には旧ソビエト連邦法と2000年4月に出来た、新ロシア法なる二つの関税法が存在している」ということであった。さらには「旧ソビエト連邦法は持っている所持金額によらず、入国時に申請しないと持っている外貨は全額没収。」そして「新ロシア法は1500ドル以下の現金の場合は申告不要。しかし1500ドル以上の場合は申告してないと全額没収。トラベラーズチェックは申告不要とのことであった。」 館員の説明は続いた「カスタム側は出国時にまず、旧ソビエト連邦法をちらつかせてみる。そして、知らないと見ると、金を巻き上げにかかる。この手法で世界中の旅行者が引っ掛かり被害にあっているらしい」とのことであった。さらにこのように、アドバイスをしていただいた。「出国時間違えなく、カスタムカードの提示を求め、なければ、旧ソビエト連邦法をちらつかしてくることでしょう。その時は毅然たる態度で2000年4月から新ロシア法に変わり1500ドル以下は申告不要を知っていると言いなさい。そうすれば彼らも諦める」とのことでした。さらに「もし、それでもだめなら大使館に連絡してください。合法的な部分に対しては正式に抗議出来ますから」とのことでした。 「しかし現金で1500ドル以上ある場合はこの国では言い訳無用であり、大使館としては何も出来ない」とのことでした。私はこの時全て現金のみであり、3000ドルと50万円持っていました。そのことを説明すると、「残念だが何もしてあげることはできないので、自己責任にて隠すなる何なり」ということでありました。 事前になんの情報収集もせず、このような国にきてしまった自分が悪いのであり、館員の言うとおり、自己責任はごもっともと、納得したのでありました。 さてさて、モスクワ発ターリン行きの国際夜行列車で出発当日。マネーベルトに1450ドルの現金を。50万円をリュックサックの2重底に隠し。残りのドル現金を、ショルダーバックの2重底を小さく切り、隠した。縫い合わせるのが、めんどくさく感じ、手荷物で塞ぎ仕込みは完了。午後12時、ホテルをチックアウトして、地下鉄で、モスクワ駅に向かったのでした。 モスクワ駅に到着すると、駅の有料のクロックルームにリュックサックを預け、市内を見て歩くことにしました。リュックサックには鍵をかければ、なにやら、高価なものが、入っているのではと思われる方が危険と判断して、鍵をかけるのはあえてやめました。 いよいよ出発時刻が迫ってきましたので、モスクワ駅に戻りました。クロックルームでリュックサックを受け取り列車に乗り込みました。ロシア車両の列車は、豪華絢爛という言葉がそのまま、当てはまるに十分な豪華さでした。贅の限りを尽くしきった一品と言うに相応しいものでした。車両内通路は豪華なカーペットが施され、コンパーメントは4人用でした。窓には、これまた、贅の限りを尽くしたであろう、ブラウン系の豪華なカーテンは私では理解不能な芸術的な刺繍が施されていました。ベットも左右、下、上段の4つのベットは純白のシーツで覆われており、掛け布団は綺麗に折り曲げられていました。窓際のテーブルには、ミネラルウォーター、朝食用の、クロワッサンにフルーツの盛り合わせ。もちろん床にもふかふかのカーペットでした。これで2等寝台、、1等はどんなだろう?と考え込んでしまった。 右下のベットに寝転がっていると、糊のきいた真っ白のYシャツにセンスのよいネクタイ、ねずみ色のスラックスに磨き上げられた黒い革靴。エリートが好んで使いそうな、黒革の鞄といういでたちの若き白人青年がやってきた。彼は、左上のベットを確保すると、ハローと話しかけてきた。彼は、謎の東洋人である、私に興味があるのか、話したがっていた。が私はそれどころではなく、露骨に「あなたとは喋りたくない」という表情を出してしまったせいか、以後彼は終始無言のままであった。 午後10時を過ぎた頃、彼が照明を消した。私は不安で重い気持ちを忘れようと、眠りについたが、熟睡することができなかった。うと、うと、とした意識の中で、眠っては、覚め、眠っては、覚めの繰り返しであった。一匹の羊、二匹の羊と数えている間に運良く睡魔が襲ってきた。あれから、どれくらい経ったのだろうか? ドン、ドン、ドンと伝わってくる音で、目が覚めた。彼がコンパートメントの内鍵を開けようとしていた。2人の制服を着た男たちが、入ってくるなり「ロシアン、カスタム」と怒鳴りつけてきた。とても勤務熱心な顔立ちで、彼らは私の顔を見るなりいきなり、「カスタムカード」と凄んだ。私が「NOカスタムカード」と言うと案の定旧ソビエト連邦法をちらつかせ「通貨申告書を見せろ」の一点張りであった。大使館に言われたように「今年4月からの新ロシア法を知っている。私は1450ドルしか持っていないので、カスタムカードは不要だ」反撃した。彼らは、「金を見せろ」と迫ってきた。腹に巻いていたマネーベルトを見せ、ドル札を数えてやった。彼らはとても悔しそうな顔に変わり、「今から荷物検査を行う」と言い、リュックサックの中身をひっくり返しだした。懐中電灯を握り締め、「これは、なんだ?」と聞いてきた。スイッチを入れ、電球の明かりを点けてやり、「日本語で、これは、懐中電灯だ」と返してやった。「ショルダーバックを見せろ」と手ぶりで言ってきた。見せてやった。手を突っ込み、がさがさとやっていたが、底まで、手を伸ばす前に、諦めた。とても悔しそうな顔をしていた。次は白人青年の番がやって来た。彼がパスポートを見せるとそのままコンパートメントから出て行った。外交官用のパスポートであった。 次に「ロシアンイミグレーション」とあまり仕事をやる気がなさそうな小声が聞こえてきた。職務怠慢な顔立ちで、2人の制服を着た男たちが入ってきた。あの職務に勤勉であった、カスタム職員たちとは違い、いとも簡単に出国手続きは終わった。ろくにパスポート、別紙のビザ書類と出国カードを見ることもなく、パスポートの最後項にスタンプを押し、別紙のビザ書類にもスタンプを押すと出入国カードだけを回収して、出て行ってしまった。 列車はしばらく徐行運転をして、再び停車した。「エストニアイミグレーション」という紳士的な声とともに、とても紳士、淑女的に制服を着こなした、男女2人の職員がコンパートメントに入ってきた。「パスポートをお見せいただけますか?」と淑女。私がパスポートを手渡すと、その淑女は、顔写真と実物である、私の顔を見比べながら、もう一人の紳士に、パスポート番号を読み上げた。紳士は淑女の読み上げた私のパスポート番号を手持ちの携帯コンピューターに手入力していた。そして、淑女はパスポートに入国スタンプを押すと「ウエルカム」と言い出て行った。次に「エストニアドラックコントロール」と紳士的な声とともに、一匹の麻薬犬と二人の紳士が入ってきた。麻薬犬が「クンクン、ワンワン、異常なし」と答えると二人の紳士は麻薬犬とともにコンパートメントから出て行った。パスポートのスタンプを見てみた。ロシアのスタンプとおなじ最後項に押されていた。「余談、東欧すべての国がおなじでした。旧ソビエト連邦の衛星国はこのような取り決めがあるものと推測できました。」 すべてが終わった。疲れがどっと溢れだしてきた。平常心にもどり、彼と話をする余裕ができた。彼が言うには、彼の身分は在モスクワ、エストニア大使館の外交官。夏休みで実家に帰るところであった。5日前、アメリカ人がやはり、ここで、どうやら、引っ掛かったみたいであった。アメリカ大使館の抗議もむなしく現金を全額没収されたらしく、それが、在モスクワ各国大使館の課題になっている最中であったとのことであった。 あの世間を騒がせた、ある国会議員友好の家の友好は、ロシア国境の町までは、届いてはいませんでした。
END
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