メニューへ戻る>サラエヴォ事件 |
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1914年6月28日 ある書物によると、ボスニアを統治していたオーストリア=ハンガリー2重帝国の大公にして皇太子フランツ フェルディナント夫妻が、セルビア人青年ガブリロ プリンツィプに狙撃され、第一次世界大戦のきっかけとなったサラエヴォの銃声の現場であるらしい。ラティンスキー橋「旧プリンツィプ橋」。事件当時はラタイナー橋その後「旧プリンツィプ橋」に改められた。 この日はフェルデイナンド大公にとり妻ゾフィー ショティクとの14回目の結婚記念日だった。ゾフィーはボヘミアにある伯爵家の令嬢だったが、この結婚は決して祝福されたものではなかったらしい。ハプスブルグ家の規範では伯爵家の出身では皇嗣の夫人として相応しくなかったらしい。このため3人の子供は王位継承者から除かれ、またゾフィーは王族を示す称号をなのることも許されなかったらしい。 このため二人で公式の行事に参加することもできなかった。しかしフェルデイナンド大公は二重帝国陸軍の閲兵長官の肩書きを有しており軍の閲兵の目的であれば大公妃を同行する事が可能だった。そのため大公はこの日妻をつれていった。 一方この日はセルビア人にとり忘れることのできない日だったらしい。1389年旧セルビア王国の最後の軍団がコソボでオスマン帝国軍によって、この日全滅させられたのだ。セルビア人は600余年後1912年、第1次バルカン戦争のクマノボの戦いでこの辱をそそぐことになったらしい。 前日サラェヴォ近郊イリッツエに到着した大公はそこで閲兵と演習視察を終え、翌日汽車でサラェボ入りした。6台のオープンカーが出迎えで待ち、大公夫妻とポティオレック・ボスニア総督がその内一台に乗り込んだ。10時に市内のミリヤッカ川沿いを通過する予定であったが、その川沿いの道(アペル キュー)に六人の刺客が並んでいたらしい。 一人目は、警察官が背後にいると錯覚し前を通る大公を逸した。二人目のチャブリノビッチは爆弾を与えられており、傍らの警察官に落ち着き払って、「大公の車はどれだい」と聞き、答えをえるやいきなり、信管をそばにあった電灯柱に打ち付け、大公めがけて爆弾を投げつけた。爆弾は大公の隣にいた大公妃の首に命中したが爆発せず道にころがり、次の車が通った時に爆発した。次のその車は大破し乗っていた人を含め10人以上が重軽傷を負った。チャブリノビッチはすぐ逮捕され、壊れた車はそのままに行列は何事もないかのように進んだ。三人目、四人目は驚愕し、そのまま自宅に帰った。次の五人目、プリンチップはこの失敗を見てやる気を失い、近くの軽食屋 シラーの店に入り込んだ。六人目は近眼でよく大公が見えなかったうえに、既にやる気を失っていた。 大公は市庁舎に到着した。怒りに燃えながらも、その場は丸くおさまり、市長の歓迎の辞にこたえた。その後大公は午後の予定、博物館の改装の記念式典をとりやめ、怪我人の見舞いに行くことにした。 博物館は旧市街にあるが病院は郊外にあるためまた川沿いの道に戻る必要があった。川沿いの道にはいる交差点で停まりバックをはじめた。そこには偶然にもにプリンチップが立ち寄ったシラーの店があった。驚いたことに大公が目の前に止まっていた。プリンチップは立ち上がりブローニング拳銃を手に持ち大公の車のタラップに乗りいきなり二発発射した。一発は大公に命中し、二発目は大公妃にあたり即死させた。大公の最後の言葉は「Sophrel! Sophrel! Sterbe nicht! Bleibe im Leben fuer uns(e)re Kinder! ゾフィー、子供たちのために生きてくれ」だったと伝えられるらしい。 |