敗戦後の一億総懺悔

この章「近代史がゆがめる古代日本史」は【八木壮司著 古代天皇はなぜ殺されたのか】からの参考と引用で成り立っております。

敗戦後は戦時中のすべてを否定して出直さなければならなかった

戦勝国及びその手先たちにより、1945年「昭和20年8月15日」の敗戦を境に日本は、明治維新後から太平洋戦争「大東亜戦争」まではもちろん、果ては遥かさかのぼり古事記・日本書記の古代史までのすべてを否定せねばならぬ状況に貶められたままいまげんざいに至っているのだと八木壮司氏は述べています。

神功皇后(じんぐうこうごう)、息長足姫(おきながたらしひめ)が実存したかどうかは、いってみれば純粋な歴史学の問題である。しかし、戦後の学界では、そうではなかった。

  1. 古代にあたっては、神功皇后は新羅に進攻し三韓を制した。
  2. 近代日本は朝鮮を併合し、アジアを侵略した。

であれば、古代における神功皇后の新羅征伐を史実としてみとめることは、近代の侵略行為をみとめることにつながる、という奇妙に倒錯した観念に、多くの研究者がしばられてしまっているのである。

具体的に例をあげて考えてみたい。
高句麗・好太王碑(こうくり・こうたいおうひ)には、神功皇后の時代いらいの半島情勢についてしるしたとみられる部分がある。
注1「百残・ひゃくざん(百済・くだらの蔑称)、新羅、もとこれ属民、由来朝貢す。しかるに倭が辛卯年(しんぼう)を以(もつ)て海を渡って来たり、百残□□新羅を破り、以て臣民と為す」

すでにふれたとおり、「百済と新羅はもと属民だったのに、倭が海を渡って進攻してきて百済、新羅などを破り臣民にしてしまった」という意味である。

ところが、在日の学者、李進煕氏(りじんひ)がこれに異を唱え、明治の陸軍参謀本部による碑文の改竄があったという仮説を昭和四十七年に発表すると、学界はあげてその論争に明け暮れるさまとなる。

いますでに決着がつている問題なので多くはふれないが、「改竄」といっても碑面そのものをしらべたわけではない。碑面から紙に採った拓本を時代順にくらべると、字がぼやけたり、急にはっきりしていたりして改竄したらしいあとがうかがえるという程度である。

注1の部分でいえば、「海を渡って来る」(来渡海)という部分に改竄のうたがいがあり、倭が海を渡って侵攻してきたかのように、陸軍参謀本部の中尉が碑面に石炭を塗って字をきざみ、文意をかえたというのである。

なぜ明治時代の日本の陸軍がそんなマニアじみた小細工をやるのかといえば、日本の朝鮮併合と侵略に歴史的根拠をあたえるためだという。

ただし改竄があったかどうかは、碑面そのものをしらべれば簡単にわかることで、それがこの仮説の致命的な弱点なのだが、しかし、なぜ、ほとんど根拠のないこの程度の説に日本の学界が大騒ぎしなければならなかったのか。

※補足資料
広開土王碑
1972年、李進煕(りじんひ)氏はその著作『広開土王陵碑の研究』の中で好太王碑に関する驚くべき研究を発表された。陸軍参謀本部の密偵・酒匂景信(さこうかげのぶ)は1883年に碑文の一部を削り取るかまたは不明確な箇所に石灰を塗布し改竄したのち、双鉤加墨本(そうこうかぼくぼん)を作り持ちかえり、さらに酒匂の偽造を隠蔽・補強するためさらに1889年から1900年ごろ参謀本部は碑の全面に石灰を塗布したというのである。さらには、そうした改ざんは、我が国の朝鮮半島へ進出を正当化する意図でなされたというのだ。

李氏の研究論文は当時センセーショナルな波紋を呼んだ。しかし、2005年6月になって、酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見され、その内容は酒匂本と同一である旨の新聞報道がなされた。さらに2006年4月には中国社会科学院の徐建新氏により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表された。これにより、李進煕氏が主張した旧日本陸軍による改竄・捏造説が成立しないことが確定したことになる。

そこに、神功皇后の実存を全否定しなければおれない学界の事情と、同じ問題が隠れていると考えられる。

  1. ひとことでいえば、近代日本の侵略行為にたいする贖罪意識である。 在日の学者に指摘されれば、それがどんなに根拠の薄弱な仮説であったとしても、最大限の誠意をもってうけとめなければならないという強圧的な義務感。
  2. 「日本の研究者としては、朝鮮の研究者からの批判にこたえるということにとどまらず、われら自身の"内なる課題"を明らかにして、みずからの手で『史眼』のくもりを正すべきではないか」(上田正昭『日本の歴史②』小学館、昭和四十八年) という考えかたである。

こうした戦後のふんいきのなかで、神功皇后の実存を主張するのは、戦時中の侵略行為を正当化する反動勢力とみなされかねない危険性をはらんでいた。戦時中に皇国史観にまともに抵抗する研究者が消えてしまったように、戦後は皆が皆、無意識のうちにもこの大勢に押しながされてきたといっていい。

皇国史観の聖典といわれた日本書記を否定すれば、それだけ点数があがり、評価は高まる。神武天皇も神功皇后も、なにがなんでも全否定しておけば、研究者にとって身は安全なのである。

というわけで、初代神武天皇から第十四代仲哀天皇とその后、神功皇后まで、わずかに祟神、垂仁の二代をのぞいて、主役のほぼ全員が歴史から抹殺されてしまったのだった。

あとは荒涼とした無人の荒野が、民族の歴史にひろがっているだけである。

しかし、考古学的な成果からいえば、むしろ日本書紀の記録の正しさが、ますます証明されてきているといっていい。

たとえば、韓国の公州(こうしゅう)で一九七一年、百済・武寧(ぶねい)王陵の発掘調査がおこなわれたさい、墓誌石に武寧王のことを「斯麻王・しまおう」と記されているのが確認されたが、これは日本書紀の記述どおりだった。

斯麻王の生誕にいたる百済王室の複雑な事情も、先王の子とする朝鮮側の『三国史記』の表むきの説明より、真相にふみこんだ日本書記のほうが正確であろうと思われる。

また韓国南西部、栄山江(ヨンサンガン)流域を中心に、日本からのりこんだ古代氏族の墓とみられる前方後円墳が十三基もみつかっているが、六世紀にはいると、この付近の前方後円墳はすっかり姿を消す。これは日本書記の記録しているように、継体天皇の時代に政権を担当した大伴金村(おおともかねむら)が、日本の主権下にあったこのあたりの四県を百済に割譲してしまったためとみられ、そうだとすれば日本書紀の記述が、考古学的に正確にうつしだされているといっていい。

さらに、あの稲荷山古墳の鉄剣銘文である。日本書記では第十代祟神天皇の伯父で、四道将軍の一人とされる大彦(おおひこ)の名が、鉄剣にはその記録どおりオオヒコ(意冨比垝)ときざまれていた。

第二十一代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の名は、日本書記では「幼武・わかたける」と記録されているが、鉄剣銘文にはワカタケル(獲加多支鹵)としるされていて、これもぴったりと一致している。

考古学的成果をこうして、ざっとならべただけで、四世紀はじめの祟神天皇から、五世紀の雄略天皇の時代をへて、六世紀の継体天皇まで、歴史の流れは日本書紀が記録しているとおりだったことがわかる。すくなくとも、日本書記の記述に反するような考古学上の証拠はこれまでのところ、一つもみつかっていない。

にもかかわらず、戦後の古代史学界がことごとく日本書記を否定してきたのは、なぜだったのか。おそらくそこに、学問的なこととは異なる次元の問題が、入り込んできているからだろうと考えられる。

「一億総ざんげ」といわれたように、敗戦後は戦時中のすべてを否定して出直さなければならなかった。戦前の価値観は軍国主義として断罪され、一掃された。皇国史観の聖典といわれるような歴史書は、いっさいこれをみてめてはならず、神武天皇や神功皇后は軍国主義の象徴とみなされ、史上から抹殺されねばならなかった。

こうして、日本書記の内容を否定し、その記述とは反対の説をとなえることが古代史学界の主流となくっていく。実際、そのような流れに沿った説でなければ評価されず、注目をあびることもないとなれば、すべての研究が一定の方向性をおびるのは、やむえないことであったろう。

しかし、ここで考えてもらいたい。近代の戦争は、当然ながら日本書紀のせいではない。古代において大和民族が大陸に進出した事実が、近代と似たかたちで日本書記に記録されているからといって、日本書紀を否定しなければならない理由は、まったくないということである。

日本書記をみることは、近代の戦争をみることにつながらない。近代については、近代を生きた者が責任を負うべきであって、仮にあやまちがあったとしても、古代の人々にそれをなすりつるのは、とんでもないおかどちがいというものである。

神武天皇も神功皇后も、純粋に実存の根拠があるなら、時流におもねることなく堂々と現代によみがえらせるべきであろう。
昭和の大戦が終わって約六十年、民族の歴史に新たな光をあてるときがきている。

征服者は出自を隠さない

倭国は、白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)「六六三年」倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍(羅唐同盟)との間の、海と陸の会戦に敗れたあと、マッカーサー総司令部(GHQ)のような占領機関が唐によって設置、その後占領されたという奇想天外な説がありますが。たんなる空想であって根拠といえるほどのものはないようです

出自を隠し通すような権力者がいた例は世界中どこをさがしてもありません。たとえば漢の皇祖、劉邦であれ、豊臣秀吉であれ、貧しいながらも自分の出自をあきらかにし、故郷の郎党やら、血族を高位高官や大名にとりたてています。むしろ誇りをもって父、母を先祖を語り、その系譜をのこすもの、権力者は出自を隠さないものであります。

そのような観点からみると白村江敗戦後、倭国が唐によって占領されたというような史実は国内のどの文献をさがしてもみあたりません。それに、もしそのような重大事がほんとうにあったとしたら周辺国の歴史の記録にかならずのこっているはずなのですが、それもありません。