古代天皇暗殺

いまの歴史学界では、天皇(大王)を史上から抹殺する説がつぎつぎと登場し、皇室系譜はまるで死屍累々といった様相をみせているとのことです。

その方法はいろいろあるのですが代表的なやり方として

また古事記、日本書紀にいう第二代から第九代のいわゆる「欠史八代」の天皇のように、実績が伝承としてのこっていないからという理由で、八人ともばっさりと切られてしまいました。

古代史学界の天皇暗殺事件

古代史学界によって、その存在が史上から抹殺されたのは、まず初代の(磐余彦尊・いわれひこのみこと 神武天皇じんむ)である。ついで二代から九代まで、いわゆる「欠史八代」の天皇が八人ともに抹殺された。

第十代崇神天皇天皇(すじんてんのう)・御間城入彦(みまきいりひこ)はなぜか、いまの学界ほぼ全員に実存をみとめられているが、それでも有名な「騎馬民族説」のように、すっかり人格をかえられてしまい、日本列島を進攻した大陸の騎馬民族の首領にされてしまったりする。

第十一代垂仁天皇(すいにんてんのう)・活目入彦(いくめいりひこ)のばあいは、実存する父、崇神天皇の子であり、父が御間城入彦(みまきいりひこ)、子が活目入彦(いくめいりひこ)といったふうに名前の一部が同じということもあって、だいたい実存の人物とされている。しかしその子、景行天皇(けいこうてんのう)・大足彦(おおたらしひこ)」となると、あっさり切り捨ててしまう学者、研究者が多い。

理由はこれもあいまいで、まず大足彦(おおたらしひこ)という名前が学界の気にいらないようである。なぜなら、タラシとい名の一部はずっとのち、推古天皇(すいこてんのう)のあとをうけて即位した第三十四代舒明天皇(じょめいてんのう)とその皇后「皇極天皇(こうぎょくてんのう)」の和風諡号にふくまれている。だから大足彦は、七世紀あたりの天皇の諡号をまねて名づけた架空の人物であろうというのである。

しかしタラシがつくのは景行天皇だけではない。その子、第十三代成務天皇(せいむてんのう)は稚足彦(わかたらしひこ)、孫の第十四代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は足仲彦(たらしなかつひこ)、そしてその妻である有名な神功皇后(じんぐうこうごう)は息長足姫尊(おきながたらしひめ)である。

この四人の前の時代の第十代、十一代は名前にヒコ(彦)がつき、このあとの時代の第十五代応神天皇(おうじんてんのう)からはワケ(別)がつくのは、よく知られているが、同じようにタラシがつくのも、この時代の特色と考えれば、すんなりと理解できる。

諡号にタラシがつくからといって、景行天皇から成務、仲哀、神功皇后まで四人をひっくるめて歴史から抹殺してしまうのは、あまりにも安直な斬り捨て御免の論法といわなければならない。

こうして歴史から抹殺された天皇は、古事記、日本書紀に記録されている初代から十四代までのうち、じつに十一人ないし十二人にのぼる。実存がほぼみとめられているのは、前述したとおり祟神、垂仁天皇の二人だけという、さんだんなありさまになっている。

第十代祟神天皇から第十五代応神天皇まで、実年代ではざっと百年が経過しているはずだか、この間わが国には二人しか君主がいなかったことになるのだろうか。景行、成務、仲哀、そして神功皇后をふくめるなら四人を抹消した現代の学者は、その空白の時間をどう説明するのか。

うたがわしきは片っ端から抹殺し、あとは空白にしてほうっておくというのでは、歴史にたいし無責任すぎるというものであろう。

応神天皇以後は、さすがに架空の人物との烙印をおされた人はひとりもいない。とくに第二十六代継体天皇からは、現在まで約千五百年にわたって皇統が連綿としてつづいていることは、すべての学者がみとめている。

しかし、だからといって安心できないのが学界である。たとえば前述した第二十七代安閑天皇(あんかんてんのう)と、つぎの宣化天皇(せんかてんのう)は正規の皇統からはずされ、傍流に退かされてしまっている。西暦五三十年代に、後世の南北朝時代のような「二朝対立」時代があり、欽明天皇(きんめいてんのう)側との内乱状態がつづいたというのである。

証拠はもちろんない。ちょっとした年代のくいちがいをもとに、日本書紀の記録とはまったくちがった架空の話をつくりあげ、南北朝時代のような対立の状況をまことしやかにえがいてみせたにすぎない。

史実としての天皇暗殺

第三十二代崇峻天皇(すしゅんてんのう)が暗殺されたのは、日本書紀によれば崇峻五年(五九二年)の十一月三日であった。世界に比類のない日本の皇室の長い歴史で、天皇が臣下に殺されたのは、あとにも先にもこれ一件である。

この事件、暗殺を命じた主犯も、実際に手をくだした実行犯も、日本書紀によってはっきりとわかっている。主犯は当時の最高権力者で大臣(おおおみ)の地位にあった蘇我馬子(そがのうまこ)、実行犯は配下の帰化人系氏族の東漢駒(やまとのあやのこま)である。

ときは聖徳太子が登場する直前であり、蘇我氏の全盛時代だった。崇峻天皇自身が蘇我系で、父は欽明天皇、母は馬子の二番目の姉(小姉君 おあねのきみ)である。ところが即位後、権力者の馬子と対立することが多くなっていたらしく、あるとき献上された大猪(おおいのしし)をみて、「いずれのときにか、この猪(しし)の頸(くび)を断(きる)るがごとく、わが嫌(ねた)しと思うところの人を断らむ」と、もらしたのを、近くにいた妃(みめ)にきかれてしまった。

わが嫌しと思うところの人、とは蘇我馬子をさしているにちがいないとみた彼女は、そのことを馬子に密告する。小手子(こてこ)という名のこの妃、夫の崇峻天皇の愛情が他の女性にうつりつつあるのを知って嫉妬にかられ、ときの権力者に密告したというのが、結果として天皇暗殺の重大事件をひきおこしてしまったことになる。

この歴史ミステリーには、後段がある。実行犯の東漢駒という男は崇峻天皇を弑逆(しいぎゃく)したあと、馬子の娘たちのうち、ある皇族の妃になっている河上娘(かわかみのいらつめ)という女性をかどわかし、駆け落ちしてしまった。手下に娘がけがされたのを知った馬子は、駒をひっとらえてこれを誅殺(ちゅうさつ)する。

天皇暗殺の主犯である馬子は、結果的に実行犯も消したことになる。権力者の馬子はむろん罰せられることはなく、このあと姪にあたる推古天皇(すいこてんのう)を史上はじめての女帝として皇位につけ、甥の第三十一代用明天皇(ようめいてんのう)の子にあたる聖徳太子を摂政として、はなやかな飛鳥時代を演出していくのである。

天皇暗殺は、じつはもう一件ある。犯人は臣下ではなく、いわば身内であったためあまり知られていないが、第二十代安康天皇(あんこうてんのう)が再婚の后(きさき)の連れ子(つまり前夫の子)に刺殺された事件である。

安康天皇は仁徳天皇(にんとくてんのう)の孫にあたり、心やさしい人だったらしい。ある冤罪事件で伯父(仁徳天皇の子)を死に至らしめたのを悔いて、つぐないのため従姉妹にあたるその妻をめとり、即位後は后(正室)とした。連れ子の眉輪君(まよわのきみ)はまだ少年だったらしいが、実の父が安康天皇によって殺されたことを死って、父の仇とばかり、母のそばで午睡(ごすい)中の安康天皇を刺殺したという。

安康天皇は中国の歴史書にいう「倭の五王」の四番目、興にあたる大王で、この事件は推定では西暦四六〇年代のできごととみられる。

以上は日本書紀に記録されている現実の事件である。くりかえしていうなら、古代日本で天皇が殺された事件はこの二件しかない。