この「大東亜戦争の黒幕」を書くにあたっては「ユダヤ問題・歴史評論家」の宇野正美さんの講演会の収録ビデオ黒幕 1/6 ~ 6/6 を参考にさせていただきました。
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支那事変は大東亜戦争の幕開けであった
「支那事変」現在の中華人民共和国・中国共産党では「中日戦争」と呼び、日本には「日中戦争」と呼ぶよう強要しているは、1937年(昭和12年)7月7日に発生した盧溝橋事件が直接の導火線となった。この事件により、日本と蒋介石・中華民国の間で行われた長期間かつ大規模な戦闘である。(ただし、両国とも宣戦布告を行わなかったため事変と称する)。事実上の支那事変の始まりです。
結果としてこの事変は1945年 (昭和20年) 8月15日の日本敗戦にまで至ってしまったのでした
この日までこれ以前、日本が常に敵を意識してきたのは北進論・北進政策「ロシア」でしたが不可解にもこれ以後、この日を境に日本は南進論・南進政策に転じてしまったのでした。
日本にとっては超重大な転換期であり、尚且つ絶対に抜け出すことの出来ない泥沼へと足を踏み入れてしまった第一歩でした。
一般的に言われているように日本の滅びの始まりは北の「満州事変」ではなくこの「支那事変」であり、南に足を踏み入れさせた奴が日本を滅びに導いたということができます。
遥か昔1853年「黒舟・ペリー」がやって来ましたが、もっと前から日本周辺に来ていた国があります。「アメリカ」ではなくそれは「ロシア」だったのです。そして明治維新後の日清戦争、日露戦争、日韓合弁。常に日本にとっての脅威とは「ロシア」つまり北なのでした。
世界支配の黒幕たちが仕掛けて実行した工程:
- 日露戦争 第零次世界大戦 予想外の大成功
- ロシア革命 大成功
- 第一次世界大戦 大成功
- 世界大恐慌 大成功
日本の黒幕が大東亜戦争を仕掛けて実行した工程:
- 支那事変 大成功
- 大政翼賛会 大成功
- 本土決戦 (寸前で不発に終わる)
支那事変が原因で共産化した日本
1937年(昭和12年)の支那事変ではじめて日本は南に転じてしまいました。そして中国の奥地にどんどん入り込んでいって泥沼に嵌ってしまったのでした。その影響によって日本の国体はどんどん危ない方向に変貌を余儀なくされたのでした。
- 戦争がどんどん酷くなくってきて国内の物資が不足するよになってきました
- 大政翼賛会(たいせいよくさんかい)に移行
大政翼賛会とは初代総裁に近衛文麿。第二次近衛内閣の1940年(昭和15年)10月12日発足から1945年(昭和20年)6月13日まで存在していた。「一国一党」一つの国には一つの政党しか認めないことであり、即ち共産主義思想なのです。今現在の中国がこれに該当する国です。中国には共産党・一党しか存在せず、従って総選挙もありません。厳しい戦争を円満に戦い抜くためには「国家総力戦・軍需物資や労働力の確保」が必要不可欠という名目で大政翼賛会はやもおえざる事と称して日本は共産主義国になってしまったのでした。
「思想の統制・労働組合の統制・企業の統制・物資統制」要するに大政翼賛会を中心にできたすべての法律は戦争にかっこつけているが実態は共産主義体制の国家そのものなのです。
政治とはそういうものなのであって、いまから共産主義やりますと真実をいわないし、国民に知らせないものなのです。「国民が真実に気がついた時はすべてが遅しなのです」
本土決戦をもし戦っていたら犠牲者は幾百万人に達して二度と精神的に立ち上がることなく日本国内はほんとうの共産主義革命可能な状態に成り且つ成功していたことはほぼ間違いないように思われます。
大政翼賛会下、戦時体制と称して行われた「向う三軒両隣・隣組」という監視社会。それはまるでソ連と同じだったのです「欲しがりません勝つまでは」という戦争標語。戦争にかっこつけて日本が共産主義体制に入った事がわかります。もし本土決戦して負けてしまったならば、昭和天皇はじめ宮中の重臣たちから独占資本の財閥、軍部まですべて公職追放なってしまっていたことは間違いなく、本土決戦とは共産主義革命到来の最大のチャンスだったのです。
しかし天皇の聖断によって本土決戦はしない、これにて戦争は終わりとなってしまったので、せっかくの機会を逃した共産主義革命の首謀者。つまり大東亜戦争の黒幕は焦り軍部首脳に「今度こそ君たちの出番だ。本土決戦出来るのは陸軍だけだ頑張ってくれ」と煽ったほどだったのです。もしその時、軍部が乗せられ本土決戦をやってしまっていたら間違いなく日本は共産主義国家としてソ連の属国になっていたでしょう。ようするに戦争を始めた黒幕の目的は日本を共産主義体制にしてソ連、或いは世界的共産主義革命に日本を捧げるために戦争を始めたのです。
誰がそんな事をすることが出来たのでしょうか。日本と云う国は当時三角形の貴族社会でした。一番頂上の支配階級の中でも一番力を持つ者が共産主義思想にとり憑かれてしまったならば、その一番力のある者とは大化の改新以来、力を持ち続けていた者が。そっちにに行こうと思えば日本を引っ張ることが可能であったのです。天皇さえも遠慮するであろう権力者「近衛文麿」であったのです。すべての影は近衛、ようするに「藤原なのです。」近衛文麿は経歴を調べると共産主義者であることが明白にわかるのです。東京帝国大学哲学部に入学するも共産主義者の大御所「河上 肇」から教えを請うため急に京都帝国大学に転校。徹底的に共産主義思想を植えつけられてしまったのでした。
さらに調べてみると彼は若き学生時代にユダヤ人作家「オスカー・ワイルド」の著作『社会主義下の人間の魂』という本を翻訳しているのですが、これは危険思想として発禁処分になっていた代物なのでした。日本の最高権力者がこんなことをしていたのです。そして彼は東京に帰京した後「日本及び日本人」とい本の中でアメリカ・イギリス本位の平和主義を廃止と訴えている。要するに彼は完全に「社会主義・共産主義」思想に被れてしまっていたことがはっきりしていたのです。
一番の権力者が思いどおりすると大衆はついて来るものです。羊は前がよく見えないし目もあまり良く見えない、見えるのは前の羊だけなのです。だから前の羊が動くとそれについていくだけであり、羊の前は羊で、その前は羊飼いで羊は羊飼いについていくだけなのです。それと同じ理論であり、一番の権力者が事実そのとおりに行ったのが大東亜戦争であったのです。
一番の権力者が理想を実現するためには国民の命なんかは、はっきりいってしまえばどうでもいいことなのです。またソ連においてもスターリンの粛清を思えばまさにそのとおりであったし、そのためにどれだけの罪もない人たちの命が犠牲になったかわかりません。
ほんとうに共産主義思想くらい恐ろしいものはありません。ソ連は潰れたと人はいいますが、ソ連・共産主義というのは「いかに人間を抑圧したら奴隷になるか」という単なる実験であったにすぎないのです。それを70年間にもわたって実験したのがソ連の真の目的だったのです。