タイ>タイの暴動

タイの暴動 1992年5月の3日間「5月17日−19日」の流血の惨事

政府の公式発表では市民50余人の死者、同1000人近い負傷者。ことの発端は1991年2月「時のチャチャイ首相。タイ初の軍部以外の民選総理」が外遊中に『国家治安維持評議団』を名乗るタイ国軍幹部がクーデターを敢行、憲法を無効化した。急遽外遊を取り止め慌てて帰国したチャチャイ首相を空港にて逮捕。

以前最後の軍部クーデーターは1984年のマヌーン大佐(当時)によるクーデター未遂を最期に起こってはいなかった。

経済成長と社会意識の変化にともない、もう軍部のクーデターによる政治介入はないと言われていた。しかしそのまさかがキタワァ━━(n‘∀‘)η━━ !!!!!やはりタイです^^:

スチンダー前陸軍司令官兼国軍最高司令官は寸前まで首相にはならないと公言していました。しかし1992年4月7日露骨な形で他の候補者を押し退け落下傘降下的首相就任発言キタワァ━━(n‘∀‘)η━━ !!!!!

このタイ最後の軍部による政権関与と言われだれも疑わなかった軍事クーデーターにより首相の座を無理やり射止めたスチンダー首相当時に直接市民による首相退陣要求運動が立ち上がりそれがタイ国の汚名の歴史に名を刻んだタイの暴動1992/5「流血の惨事」でした。

その流血の惨事を導く御手伝いされたのが「タイの政治家には珍しく、赤貧の代名詞でタイ国民、バンコック市民の絶大なる信頼を勝ち得ていた。チャムロン前バンコク知事当時」でした。

5月4日。王宮前広場の集会において、チャムロン前バンコク知事が完全ハンスト宣言しました。

スチンダー首相退陣要求の市民運動が、同日国会で行われる同首相の政策発表に国会外で抗議の意志を示すため結集を呼びかけていました。

野党4党もそれに呼応し、国会自体には出席するが、首相が登壇したらそれをボイコットし議場の外に出る、と表明していました。

よって当日、国会前に集まった市民の関心はチャムロンのハンストの行方、野党議員たちがちゃんとボイコットをするかにありました。

王宮前広場に集まったデモの民衆は20万人とも言われてます。

以前ならタイでの軍部クーデターなど日常茶飯事であり、国民もほとんど関心を示しませんでした。しかしこの世は諸行無常でありました。80年代よりタイ国には、莫大な資金が、バブルで投資先を探し回る日本から滝のように流れ込んでいました。「一部の資本家、特権階級と残り貧民だけ」のタイの図式が日本からの行き場のなくなった大量の資金によって「新興中産階級」なるものが、タイに出来上がったのです。タイ初の民選首相の経済拡大路線により、成長した、これら新興中産階級たちが、これからもっともっと金を増やそうと希望に夢膨らませている最中。軍事クーデーターでまた元の軍事政権に逆戻りではたまったのもではありません。せっかく増やし、育てた財産を軍部の政策変更により、増やすどころか、目減りや合法的な没収になるやも知れぬ危険があったのです。

このような新興中産階級たちを中心とした、軍事クーデーターによる、軍部の政治関与に対する「焦りや不安や怒り」の結果として、この1992/5流血の惨事が生まれたのだと私は考えます。

当時私はバンコックで、気まぐれからタイ語学校に通いつめタイ文部省の検定試験合格を目指し猛勉強中でした。日記を付けているわけもなく、正式な日付なども記憶にありません。またあれから13年の月日が流れていますので、当時起きた事項なども曖昧です。いい加減な当時の記憶だけをたよりに書き上げてますので、間違えや勘違いがあるかもしれません。

92年5月の4日だか、5日の朝当時宿泊していたバンコック中華街のジュライホテルの私の部屋に、ある風俗店で知り合ったおねーちゃんが突然訪ねてきました。寝込みを襲われ、何を言ってるのか最初理解できませんでした。なんでも「タイはこれから(革命)が始めるので、バンコックは今後非常に危険な状況になる。あなたが無事であるのかどうかのご機嫌見舞いに来た」のだとのことでした。彼女の話は続き「今後ホテルからは出ないほうがいい。あなたの身の安全のためです」で話を締めくくり、急いで彼女も帰っていきました。

何のことだかよく理解できないまま、タイ語学校に行き、はじめてすべての事情がわかりました。彼女の言ったことは嘘でも妄想でもなくて、授業は今後情勢が落ち着くまで中止。今からすぐに帰宅してくださいでありました。「一般庶民たちは当初革命という言葉を使っていたようです」

その後19日深夜までこの流血の惨事が続いたのでした。ジュライホテル周辺の中華街自体は20日未明の終結パレードの一瞬を除いて終始なんら危険はありませんでした。バンコック一般社会では、混乱による市内の無秩序化で市バス強盗が多発してました。「市バスの信号待ち時に乗り込んできて飛び道具を乗客にちらつかせ、革命軍を名乗り乗客の財布を掻っ攫いとんずら」非常に多発してました。私自身も何日だったか忘れましたが一度遭遇しました。運良くなのか、自称革命軍が物分りがよかったからなのか、私が日本人であることがわかると「外国人に手出すと問題が大きくなるのでやめておく」と言われ財布は無事でした。「開放後まわりのタイ人乗客の視線が痛かったです^^:」

この暴動の渦中にある「民主記念塔」は猫でも知っているカオサンロードのすぐ横です。知り合いも宿泊しており、野次馬根性も発揮してある日見に行くことにしました。タクシーもトクトクも怖がって誰も行こうとはしてくれませんでした。しかたなく歩いて行きました。汗ボトボト垂らしながら40分くらい炎天下の中を歩きました。ものの見事に周辺は民衆に包囲されており、とてもカオさんロード内に入れる状況ではありませんでした。仕方なくまた歩いて引き返してきました。

群集の一部が暴動化して何人かの西洋人カメラマンや旅行者などが民主記念塔周辺で殺されました。後にわかったことですが、カオサンロード内は完全缶詰状態で、一歩も内外には出られず、各宿の経営者からこれ以上事が酷くなった時は、宿泊客である外国人の身の安全を保障することが出来ないので悪いが何処か他の宿もまで出て行ってほしいとの追い出し寸前までいったとの事で生きた心地がしなかったようです。カオサンロード内には立派な警察署があります。カオサンロード住民の身の安全を護ってくれるはずの警察は当時、署の前にバリケードを築いて、飛び道具を抜き、構え、お互いを庇い合いながら普段の住民からの恨みによる襲撃を警戒して、篭城していました^^:

私の宿泊しているジュライホテルの状況ですが。平穏無事な時は毎朝未明に警官が路頭を組んで各宿泊客の部屋の戸を叩きにやって来ていました。朝方の寝込みを襲われ、無警戒の宿泊客はついつい戸を開けてしまいます。すると警官たちが雪崩を打つようにつかつかと進入してくるのです。そして荷物検査がはじまるのですが、運悪くマリファナが出てくると警官たちは勝ち誇った顔つきに変わり「逮捕する!!署まで連行だ!!豚箱にぶち込むぞ!!いいのか?それもで??嫌だろうが!!見逃してほしければ、金を出せ!!」てなわけで、本気で取り締まる気なんかあるわけではもちろんなくて、お小遣い稼ぎに来るわけです^^:もしなにも出てこなければ、警官たちは非常に悔しそうな顔で、他の部屋に行ってしまいます^^:事情を知る常連たちはもちろん誰一人として戸を開ける馬鹿はいませんでした^^:インド、ネパールあたりから流れてきた初心者君たちが何時も餌食にされてました(ーー;)がこの流血の惨事中警官たちは誰一人として来ませんでした。当たり前ですが、バンコック市内から警官が姿を消していたので、取締りなどありえないわけです。そんなこんなんで、我がジュライホテルに関して言えばとても平和は一時だったのです^^:

暴動が熟し煮詰まりかけていたある日の晩のことでした。日本食を食べに行ったのですが。早々に帰宅するはめになりました。
覚めやまぬ熱気、人々の怒りは頂点に、数日続いた暴動は最終局面を迎えようとしていた。ある日花屋で晩飯を食べているとテレビで夜間外出禁止令が発動された。店も早々と店じまいにはいり、私達客も閉め出された。早々とジュライホテルに戻ると伊藤四郎が、ホテルの分厚い鉄の扉を閉めながら、日本人の帰りを待っていた。宿泊カードを見ながら、何人ホテルに戻ってないか確認していた。その夜以後暴動が終わるまでジュライホテルの鉄格子は閉ざされ、ホテル内にかんずめにされた。4階のおばちゃんがしている食堂は当然のことながら、1日中満員でした。
風の便りがいろいろと耳にも入ってきたのですが、なんでも軍がデモに参加した市民に対して威嚇射撃ではなく、水平射撃をしてしまったらしいのです。そして、それらを隠滅するために水平射撃の犠牲になった人々の遺体をワニ園に投げ捨てて餌にしてしまったとの便りも耳に残っているような気がします。そのためかずいぶん行方不明者が出ているようです。記憶が曖昧ですので、定かではありませんが。そんなこんなで時が流れていきました。テレビではスチンダー首相当時。チャムロン元知事が国内放送を使用して、自分の正当性の主張と早くデモと暴動を中止して日常の生活に戻るようバンコック市民に説得している映像が流されていました。一方王室も動いていました。シリントン王女が韓国に出向き、たしかタイ大使館の電波からタイ国内向けに、一刻も早く日常生活に戻るよう国民を説得する映像が流れていました。

多くの努力も虚しくいっこうに暴動の沈静化は見られませんでした。最後はプミポン国王の御出馬となりました。国王がこの暴動の張本人であるスチンダー首相当時とチャムロン元知事を呼びつけて、叱りつけました。その時の映像を私は見ていました。国王の肉声はなんらかの事情で放映はされず映像と字幕だけが流れてました。

国王の鶴の一声で嘘のように流血の惨事は終息しました。スチンダー首相当時。チャムロン前知事の喧嘩両成敗ということで、終わったようです。後この二人は政局から手を引きその後2006/9/16日の軍事クーデーターにより外遊中のタクシン前首相が追われるまで軍部による政治関与は起きていませんでした。またその後続いた民選首相によるタイの民主政治の最後の人となった、タクシン前首相の政治的な師匠がチャムロン前知事当時でありました。その自分の愛弟子であるタクシン氏追い出しを、軍事クーデーターにより成功させた、一人者であり立役者の一人でもあるのです。1992/5の流血の惨事の反軍事政権側の立役者チャムロン前知事当時が、タクシン氏追い出しの黒幕であるのがいかにもタイというのか皮肉というのか「マイペンライ=気にしない」やはりタイですね^^:
おさまらない国民の怒り 平和な時は町を巡回して町の治安維持に務めていますが、この暴動の最中は各警察署の前にバリケードをはり籠城していました。市民の警察に対する不満が高まって行きました。そんな国民の不満を抑え平和的解決をはかるため、政府の命令で、警官に対して籠城をやめさせ、丸腰で暴動の放棄の説得に当たらせました。怖そうですね、 とこの国も警察は命がけですね。ご苦労様です

19日深夜あるいは20日未明。戒厳令「夜間外出禁止令」が出た後缶詰状態だったジュライホテル前の7月22日ロータリーを暴走族の集会と変わらぬ勢いでぐるぐると旋回している集団が来てまして。30分くらいはローターリーを旋回してました。銃声も連発でした。私は開けっ放しの網戸から弾丸が飛んではこまいかと不安になりづーと床に身を伏せ部屋の壁を盾に耐えていました。

しばらくするとその集団は中央駅方面に向かい消え去って行きました。ホテル下のフロントに降りていくと伊藤四郎が「革命は今終わったもう外に戒厳令は解かれたもう外にでてもいいぞ」と言いました。ローターリーにあるアユタヤ銀行のATMが壊され現金が盗む去られていました。中央駅周辺は駅前交差点の信号機が壊され交差点に面した各銀行のATMも壊され現金が消えていました。時代錯誤の軍事政権を打倒した「自称革命軍」の戦勝パレードだったようでありました。