タイ>ジュライホテル

1986年8月 ドンムアング空港から29番のバスで何とかたどり着いた。 ホテルの受付で歩き方のタイ語会話集を書き写したメモ帳を見ながらたどたどしくカタカナ発音でミーホーンマイ?茶色の作業服を着た従業員がミー!!のあとなんやかんやしゃべりまくるがさっぱりわからない。マイカオジャイと私は繰り返すだけであった。その従業員は宿泊カードを引き出しから出しパスポートをだせといった。なにやらタイ語で書き始めた、書き終わると今度は私に書けという、英語で書かれたカードの項目名前、住所だけはわかったので書き入れた。あとはさっぱりわからない。マイカオジャイと繰り返す。するとその従業員ジョーブ、ジョーブ、タムガーンといった。何回か聞いているうちにああ職業だなとわかったのでカーペンターと答えた。するとその従業員なんやら書き入れてくれた。それで終わり80バーツを払い、その従業員が鍵を持ちエレベーターで四階まで連れて行ってくれた。エレベーターが四階に着きドアーが開くと小さなカウンターがありそこが各階の受付になっていた。掃除のおばちゃが椅子に座り込みカウンターの上に両手を投げ出し昼寝をしていた。その従業員は何か捲くし立てた。おばさんはゆっくりと起きてその従業員から渡された部屋の鍵を受け取り自分の部屋まで連れて行ってくれた。その従業員が後々日本人とさまざまな形で関わっていく伊藤四郎であった。


部屋にたどり着きおばちゃんチップを要求してくるかな?と思いきや、なにもなかった。ふしぎと人なっこかった荷物を放り投げタバコに火をつけベットに寝転がった。緊張の糸がほぐれて急に便意を覚えシャー室に走った。全身汗が噴出してきたのでついでにシャワーも浴びた。この時生まれて初めて水シャワーを経験しまた。なんともいえない感触で水しぶきが体にあたり寒さ冷たさを感じなんとなく体が水から逃げていくみたいであまり気持ちのよいものではなかった。噴出した汗はすぐにおさまるのだが風呂上りのような爽快感を味わうことはできず浴び終わるとまた汗がにじみ出てきた。ジュライのトイレ権シャワー室は広かった。約3畳分ぐらいはあるか便器はいちよう西洋式なのだが水洗ではなく、洗面器下に蛇口がありプラスチックのバケツが備え付けてある。そのバケツに溜めた水で糞尿を流し込むのであった。もちろんそのバケツで洗濯も兼用である。プラスチック製の柄杓も備え付けてあり、糞をした後その柄杓を使い水で肛門を洗い流す。典型的な南国式である。タイに来て1週間もすれば、この南国式のトイレ方に誰でもすぐになれ、爽快感を味わうことができる。たまに高級なホテルやデパートのトイレで糞をしたあと紙を使うと、後々不潔感を感じるようになる。


シャワー自体は各部屋によって金属製の蛇口とプラスチック製の蛇口との2タイプがあり部屋しだいでばらばらであった。金属製の蛇口は水噴出しの表面の面積が広くそのぶん水も広範囲で出てくるのだが水圧が弱くちょろちょろとしかでない。かなり長い時間水浴びをしないと爽快感を得ることはできない。プラスチック製の蛇口の方はその逆で水噴出しの表面面積は狭く小範囲にしか水は出ないが水圧は強烈で肌が痛いくらいの勢いで水が噴き出てくる。ほんの数分で十分な爽快感を味わうことができた。シャワー室は全室廊下に面しておりシャワー室の最上部はセメントで固められたベンツマークの小窓があり蚊よけの網が内側から貼り付けられていた。どの部屋も入ってすぐ左側がシャワー室であった。部屋廊下側の最上部にもベンツマークの小窓が施され網が貼ってあった。つまり廊下を歩きながら全部屋を見ると部屋全体の最上部の小窓はベンツマーク1色なのである。部屋は広さ8畳ぐらいありかなり広い。天井は高く上から吊られたプロペラ式の扇風機が甘たるい風をかきまぜてくれた。乾期に入りクリスマスも近いころになると夜寒い日もあり頭から毛布をかぶらないと寒くて寝れない日もあった。この時期タイ人はほんの一瞬で過ぎ去ってしまう冬を楽しんでいるみたいである。この時ばかりと自分の持っているセーター、ジャンバー、中にはコートまで着飾り見せびらかしている人もいる。冬といっても一番寒いときで日本の初夏並みであるが、やはりタイ人とくに中部から南では寒いのだろう確かに体感温度は日本人と違うであろう、しかし寒さにはタイ人より強いはずの日本人がこの時期水浴びをするのに夜はかなり辛いものがあるが、タイ人を観察していると平気で水浴びをしてしまう。



ベットはセミダブル分のスペースは十分にあった。部屋の掃除は毎日、床を磨きシャワー室も洗剤を使い便器まで磨いてくれた。ベットのシーツ、枕カバーも毎日取り替えてくれた。朝10時過ぎぐらいコンコンコンとドアーをたたく音で目が覚める。目覚まし時計の役割も果たしてくれた。ほっとかれたら何時まで寝ているかわからない。ベットは部屋によって当たり外れがありはずれ部屋はタイ人が昔住みつき寝てばかりいたのか、マットレスに癖が付いていてそのとおりの体制でないと寝れなく厄介であった。コンセントも各部屋いくつもあり、ラジカセ、コイルヒーター旅行者の持っているものはこれぐらいだが十分に満足できるものであった。88年ぐらいから急激に増えた日本人の中にはテレビも置いてある人がいた。

1階は正面側に看板屋、雑貨屋、マーケット側の裏に回ると喫茶店、散髪屋等の店子。2階は事務所、一族、ホテル関係の人でも住んでるのか客は絶対に泊まらせない部屋になっていた。3〜5階が客室で6階はタイ人専用のアパートになっていた。1階フロントからアラヤンプラテート行きの乗り合いタクシー昔のだるま型クラウンも週に何回か出ていたが、日本人でこれに乗った人がいるのか?いないのか?定かでないくらい無縁であった。なんせこのころカンボジア入国は夢のまた夢誰も行く者などいない時代であった。




ホテルの作りは、ちょうど中央が吹き抜けでとても贅沢な作りになっていた。各階ネットが張ってあった。でないと5、6階から物を落とせば問題でも発生するのだろう。各階の正面ロータリー側にエアコンルーム台北ホテル側に扇風機のダブルルームが何部屋かあった。そして何部屋かのダブルルームこれは車の騒音が煩く眠れたものではなかった。そして一般の扇風機シングルルームは3、4、5階の裏マーケット側にあった。こちらは静かで最上階の5階が特に静かでもあったため、自然と天守閣のように長期滞在者が集うようになっていった開かずの魔である。必然と3、4階には一元、短期の人々が入れ替わり立ち代りすれ違っていった。

各部屋テーブルと椅子が備え付けてあり痰壷が必ず置いてある。一般の扇風機シングルルームマーケット側の大きな窓は網戸になっていてその網戸の外側にはぶ厚い木の観音開きの扉になっていた。スコールが降り注ぐ時に閉めるようになっていた。エレベーターもあったがよく故障していた。運悪く自分が乗っている時に途中でストップすると自分で扉をこじ開けて階と階の途中の隙間から這い出るしかなかった。まあ伊藤四郎が助けにきてくれたがハッパで飛んでいるときに遭遇するとなかなかのものであった。

戦後日本人旅行者の歴史とヤワラー界隈の関わり

当時知り合ったある大先輩から聞かされた話によると、1970年代日本人旅行者の大部分がバンコックでは、中央駅近くのタイソングリートホテルに泊まっていた。そこが閉鎖した後、ヤワラー界隈の楽宮旅社に移り大いに賑わったということです。当時それほど日本人が旅行者が多くはなく楽宮旅社だけで十分であったらしいのです。昔からバンコックは旅の中継地点であり、日本からの先のまた帰国前にかならず立ち寄る必要がありました。

時は80年代日本バブル期急激に増えだした日本人旅行者を楽宮旅社だけでは、賄いきれず、また時代の流れによって、廃れていった楽宮旅社の受け皿でもあるかのように、ジュライホテルに旅人が流れて来たのです。最盛期80年代後半から92〜93頃常時、ジュライホテルに約80人、楽宮旅社に約20人。計約100前後の日本人旅行者で大いに賑わっていたヤワラー界隈でありました。

ジュライホテル周辺、前のロータリー交差点は怪しげな木々が咲き乱れており、それらが日陰を作り出し暑い日中その住人たちの体を直射日光から護っていた。また雨降りの時も同様に彼らを空から落ちてくる大粒の雨から護っていた。彼ら住人は一日のほとんどをそのロータリー内ですごしていた。夜の睡眠、昼寝、食事、洗濯、シャワーから排便、排尿まですべて行う住処であった。老若男女から所帯持ちまで共存共栄していた。彼らの職業は乞食、浮浪者であった。昼間この公園には彼ら住人以外にジュライ界隈に住む架橋の老人たちがたくさん集まり、中国将棋をしていた。不思議なことに、乞食、浮浪者たちの住処であるこの場所で裕福な架橋の老人たちが、何の被害にもあわず共存共栄できる所であった。

私はこのロータリーが好きでよく来ては人間模様を観察していた。架橋の老人連は住人に対してこまめに施しを与えていた。1バーツ、2バーツ多くても1回につき5バーツどまりであったが、仏の教えをまもっていた。ロータリー内はいちよう公園になっており、真ん中に噴水があった。その水で彼らは生活用水を満たしていた。トイレは公園内の脇あたりですませていたのでいつも悪臭を放っていた。食事は施しを受けた金が貯まると、なんとジュライホテル前の屋台からソムタム、カオニョーなどの料理を出前していたのである。野良犬も何匹か腹を上に向けだらしなく寝そべっていた。よく観察すると野良ではなく、ちゃんと飼い主が存在していたのであった、もちろんここの住人たちである。住人は住みかを汚し放題であったが、毎日市の衛生局から清掃人が派遣されきれいに掃除をしていった。いたせりつくせりの福祉なのか?

彼ら住人たちの行動を観察しているととても面白い、ある住人は複数でタクローと呼ばれる球の足蹴りで暇を潰す。またある住人は汚らしいおおきなむし袋を引きずり、ごみ集めに出かける。ある住人はビニール袋に有機溶剤を入れそれを吸引しながら極楽浄土を彷徨いつづける。ある住人は痩せこけ、汚れ放題の体と衣服から悪臭を放ち、架橋の老人に媚を売る。ある住人世帯では子供を道具、武器にして、外に物乞いに行かせ、小さな手に小銭を握り締め戻ってくると、父親がその金を取り上げすぐジュライホテル前の屋台に安酒を買いに走る。その母親は架橋の老人連相手に即席マッサージをして日銭を稼ぐ。

日が暮れだすと架橋の老人連は姿を消し住人たちだけの夜がやってくる。ある住人は地面に直接寝る。ある住人はごみ拾いなどで収入がいいのか、折りたたみ式の簡素なベットを所有している。ある住人世帯では敷き布団からかけ毛布、蚊帳まで持っており家族全員が安眠につく。

ジュライホテル周辺には何件かの薄汚れた怪しげな旅社が数件あり、深夜その前を通ると白粉でメイクアップをした怪しげな妖精が優しく袖を引いてくるのであった。

ジュライホテル前あたりには何軒もの屋台が出ており腹を満たしてくれた。とくにイーサンから出稼ぎにやってきた人たちが多く東北料理が安くておいしかった。代表的なものにソムタムがある。青パパイヤの皮をむき細かく切て唐辛子で味付けをする。カオニョー「もち米」が主食である。その他ジュース屋が出ていてそこが夜の日本人の溜まり場になっていた。みな思い思いの晩飯をすませ、夜も深まった頃そのジュース屋に集まりだしてくる。旅、仕事、女、色々な情報交換から四方山話に花が咲いていた。1ヶ月も滞在すれば、みな常連気分で前を不安気に行ったり来たりする新米旅行者を横目に優越感に浸り、勇気を出して話しかけてきた新米旅行者相手にからかい半分に楽しんだものだ。




いつの頃からかジュライホテルには朝方頻繁に警官が来るようになった。各部屋の戸を叩きつけ、戸を開けたら最後だった。荷物検査がはじまり、何か出てきたら金を巻上げられた。朝方寝ぼけて起きてくる時間帯を狙った心理作戦だった。常連はわかっているので、絶対に開けなかった。インドあたりから流れてきた初心者が、事情も知らず、インドボケした感覚で戸を開けてしまうのだ。常連には合図があった、トントト トント トントこれ以外の叩き方ではだれも戸を開けたりはしなかった。過去戸を蹴飛ばし壊してまでも警官が侵入してきたことがない。一度匂いぷんぷんの自分の部屋で30分も叩き続けられ、挙句の果てに、警官がキャタツを持ち込み部屋の網戸から覗かれ、目と目が合ったことがあったが必死で粘り、あきらめてほかの部屋に行ったことがある。

いつだったか、あるテレビ局が、取材に来たことがある。適当な旅行者を選び、ビール、小遣い銭なで機嫌をとり、部屋を借り旅行者を集め、あらかじめ、決まっている原稿を渡され、このように質問するので、このように答えてくれとだ。それが、日本で放送されてから、ここは、悪名高い伝説の宿になってしまった。

あれは忘れもしない、軍事クーデターが時代遅れの代物に成り変った中で起きた最後のクーデターだった。暴動が始まる直前ヤワラーのあっちこっちで庶民が新聞片手に皆評論家ぶってたよ。終わる直前戒厳令が引かれジュライホテルに閉じこもり見ていた頃が懐かしい。ロータリーの前を暴動集団が車、オートバイ、に便乗して、発砲しながら中央駅に行進していく最中何回もすごく身近かに銃声が聞こえ床に身を伏せ通り過ぎて行くのを待っていた。通り過ぎた後、下に降りて行ったら伊藤四郎がもう暴動は終わったと言い外に出してくれたんだ。駅に向かおうとすると野次馬連中が危ないからやめとけ言っていたんだけどさ、つい好奇心で見に行ったんだけど、駅前のラマ四の交差点の信号機が壊され破片が飛び散っていたよ。それから後で分かったことだけどロータリーにあるアユタヤ銀行のATMが壊され現金が無くなってたらしい。

インド、アフリカ、中東、ヨーロッパから帰ってきた者、中南米から流れてきた者。日本からそれらの国を目指す者。アメリカに住み着いている者。また旅を休業して沈没している者。中には世界一周を目指しはしたがそのまま先に進まず、タイどころかヤワラー界隈しか知らぬ者まで、世界中から流れ着き、世界中に散らばって行く旅人達の交差点でありました。ある者は早々と過ぎ去り、ある者は長々と居つき、長い長い旅の途中で、長い旅の終わりに、これから旅立つ前に、だれもが暫しの休息と命の洗濯をする上で、ネットも情報ノートもなく、口伝えだけが、情報収集の時代に必要不可欠な存在でありました。だれからも愛され必要とされていたそんな天使の都の中華街にあった安宿なのですが、色々ありまして伝説とまでなってしまいました。そのジュライホテルも1995/10/30/ひっそりと歴史の幕を閉じました。