タイ>バンコックで働いていました |
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1980年代の昔わずかな期間ですが、バンコックで働いていたことがあります。働くきっかけになったのは、インドからタイに戻り帰国前ジュライホテルでしばらく体を休めていたときのことです。当時旅行者の間で日本からインド、インドから日本に帰国する前にタイでワンクッションおいたほうがいいという定説になっていました。それは日本とインド両国の文化にあまりの違いがあるためこの両国間を直接行き来するのは精神衛生上良くないと考えられていたからです。とくにインドを旅すると軽いインド病に罹るケースが100パーセント近くの確率であります。インド病に罹った体を帰国前タイで治療してから帰国するのが一般的でありました。その定説に習い私もインド病を治療していたのです。 所持金も残り少なくなり帰国は秒読み段階に入っていましたが。なぜかまだ完全燃焼しきれず帰国は後ろ髪惹かれる思いだったのです。かといって親に電話して送金してもらうのも気が咎められていたのです。 私はどのようにして仕事を探せばいいのか考えた挙句日本人会に行ってみました。相談したところ掲示板に求職求むの張り紙をすること、ジュライホテルでは悪いイメージにとられるので、どこかヤワラー以外の中心地にアパートを借りることなどのアドバイスを受けました。伊勢丹からプラトナームの交差点手前の運河に面して建てられている安アパートになけなしの金をはたき部屋を借り、掲示板に張り紙をして面接の連絡を待つことにしました。 一週間ほど経ったころ電話があり面接に行きました。そこはスリウォング通りに面したウオールストリートビル内にあった小さなオフイースで日系の貿易会社でありました。2ヶ月ほどそこで働いていましたが、仕事らしいものもあまりなく、なんだか長く働けそうにありませんでしたので、辞めてしまいました。 これからどうしようか?試行錯誤で悩んでいるとき貿易会社の仕事で知り合ったある日本人から日本人クラブで人を探しているので一度面接に行かないかと誘われました。私はすぐにその話に乗り面接に行ったのであります。 そこはスクムビット通りのソイナナのある日本人経営の日本人クラブでした。5分ほど簡単な面接を受け明日から働いてくれと言われ働くことになりました。スーツ、シャツ、ネクタイ、すべて経営者のお古をもらい、さっそく出勤したのであります。肩書きはなんと総支配人でありました。給料「当時の現地採用の2倍半」家賃「スクムビット通りのアパートを経営者もち」。ビザ書き換え「3ヶ月に一度ペナンまで、飛行機往復とホテル代とビザ申請費を経営者もち」 タイ人マネージャ、ママ、チイママ、ボーイ、バーテンダー、バーテンデー、レセプションに経理とありとあらゆるスタッフがおり、私はなにも仕事をせずともよい環境でありました。ただ経営者に代わり毎日お店に出勤してお金の管理とたまに客から呼ばれた時ただ酒を飲み、世間話をするくらいでした。ありあまった時間は、当時50人ほどいた若いホステス相手に超合法的なセクハラをやるくらいでした。 まあ世の男なら当時の私が竜宮城に行き天に昇る浦島太郎であったとご理解いただけると思います。「あああ、、なんて良き国、、ああ、、なんて良き環境。首までぬるま湯に浸かり、湯船から出たくても、室温は南極のようにエアコンで冷え切っていて、理論上出れない」という夢のような状況でした。 しかし、夢のような生活も長くは続かず、タイの洗礼を受けることになりました。働きだして3ヶ月ほど経ったある日、ある問題が発生したのです。出勤前一雨降れば、だれも出勤してこない。なんど遅刻しても、、にこっと笑って、、マイペンライ。皿、コップに灰皿が頻繁に行方不明に、、くすねるその瞬間を目撃されても、、マイペンライ。期限切れ前の客のボトルがひんぱんに、、行方不明、、あるいは、、空になる。とう、とう私の堪忍袋の恩はぶち切れてしまったのです。 私は、自分の行った、、日本式の締め付に対して後悔するのに長い時間は必要ありませんでした。ある日開店時間になっても、一握りの従業員しか出勤してきませんでした。ママ、ちいママ、ホステス、バーテンデー、、すべて出勤拒否。「先に客の方が来てしまったのでありました」やがて昔から働いていたタイ人マネージャーから電話があり、経営者に対して、私の退陣を要求してきたのでありました。彼からしてみれば私が働きだしたことによって、すべての権限、既得権を失いつつあり、経営者からも、あまり重要視されなくなってきており、私への恨みが積もっていたまさにその時。私の日本式の締め付けによる全従業員の不満を利用してストライキを企画、先導して私を追い出しにかかったのでありました。 私は首を覚悟していましたが、彼の賭けは見事に裏目に出てしまい店を追われイギリスに出稼ぎ労働者として旅立ったのでありました。 首の繋がった私は(マイペンライ)の言葉の意味の深さを実感しました。ここはタイ日本式は絶対に通用はしない。すべてタイ式に物事を進めなければならない。何があっても怒りは禁物、笑顔を絶やさず、マイペンライ。 またも夢のような生活を取り戻しましたが、その後一年あまり経ったころ重要なことに気がつきました。お金がぜんぜん貯まっていなかったのです。 ついに私は帰国を決意したのでありました。 |