タイ>タイ雑学

現金両替なら銀行よりも、たくさんのバーツをくれるところ。
伊勢丹の歩道橋を渡りプラトナーム方面に進むと。交差点の少し手前にバンコック銀行がある。そのバン銀のATMのところを右に入ったソイ。

すると左右向かい合わせで2件のスーパーリッチがある

あるジュライ元住人が言うには兄弟で凌ぎを削りあってるらしい。

日により両替レートが左店のほうが高かったり右店のほうが悪かっありまちまちだから両方の店でレートを確認した方がいいと思う。

盗難リスクを考えなければ、タイは日本円の現金を持って行きここで両替するのが一番換金率が高い。円からバーツ。円からドル。その他外貨にも

ここは航空券の卸元。カオサン界隈の代理店で買うデスカウントチケットはたいていここで発券してる。要するに問屋。

ここで買えばその場で発券してくれるから一番安全な所。

もちろん卸元だから座席の確保も有利。

「最近値段がカオサン界隈の代理店よりも、やや高めに値上げされたみたいですので、安さを最優先の人には不向きです」

花屋で昼飯を食べたついでに行くといい。スリウォング通りにそのまま進みスリウォングをパッポン方面に行くとすぐ左手に寂れた高層ビルがある。そのビルの26F。

NANCY TOURS AND TRAVEL CENTER. 322/68 Suriwong Watthamakam BLD. 26F Suriwong Rd. Tel 02-234-4751 Fax 238-4522

日本食レストラン花屋。シープラヤ通り「GPO近く」

創業昭和18年 創業60周記念で時計の景品を来客に配っていました。タイ国最初の日本レストランであり一番の老舗である。歴代の日本国首相はじめタイ王室までもが訪れています。

食べた食べた飯2杯おかわりした。月曜日から金曜日まで昼の日替わり定食がお得。刺身は絶対に毎日付くのがありがたい。タイ一番の老舗だから味も間違いくチョウお奨めです。


タイ族
かって中国で漢民族につぐ規模を持っていたタイ民族は数世紀前まで揚子江流域に稲作民族として居住していた。しかしやがて漢民族の圧力を受けメコン河沿いに南下移動し、雲南を通り十三世紀ごろに現在タイ国の位置に定住した。タイの言語、思考様式、行動様式、衣文化、食文化、住文化、人間関係と社会構造、宗教などは中国のタイ族に影響されたのである。

仏教
タイ族の仏教も一千年以上の歴史を持つ。雲南省のシーサンパンナにある春満村大仏寺は小乗仏教の寺である。

タイ文字
元来タイ語はタイ族の言葉でシナ語と同じ語族で漢字文化圏であるが、途中約700年前にインドのパーリ語の文字を取り入れてタイ語の発語に当てた。

思考方式
約700年前に「川に魚あり、田に米あり」で知られるタイ族のラムカンヘン大王の碑文は、また次のように伝える。「商いを望む者は商う」そして現在、タイには「好きな事をする人こそがタイ人である」のことわざがある。このようにタイ人の思考様式は雲南省に住んでいたころのタイ族の思考様式を今に至るまで、受け継いできたものである。タイは物事を両極端的に考えるために何でも対照的な二通りとする傾向がある。ダブルスタンダードのタイ社会は全体主義の日本と同様、世界に類を見ない独特の社会である。

天使の都の日本語訳
『天神の都、偉大なる都城、帝釈天の不壊(ふえ)の宝石(エメルド)、帝釈天の戦争なき平和な、偉大にして最高の土地、九種の宝玉の如き心楽しき王都、数々の大王宮に富み、神が権化(権化)して[国王のこと]住みたまう、帝釈天が建築神ヴィシュヌカルマして造り終えられし』の冒頭の部分だけをとった略語
この正式名はラーイraaiという尻取韻各句の最終音節の韻を次の句の第一、第二、または第三音節でふんでいく形式の詩で赤字になっている部分が押韻、このような長い名は国王や白像の名前にもある


 クルゥングテープマハナコン
(天使の都)バンコックのタイ名 タイ国の首都の正式名

クルングテープマハナ
コン  モンラタナコオシンヒンラアユタヤー  マハーディロクカポプ  ノププァラァタナァラーチャターニーブゥリーロム ウドムラーチャニウェートマハーサターン  アモンラピマーンァワターンティト サァクカァタァトティャウィトサヌカムプラァシィト


ポーソータイの年号(仏暦)釈迦が入滅してからの年号。西暦に543年たしたのが、タイの年号です。
今年は2546年にラーマー1世はトンブリーから川向のバンコックに遷都しラッタナコーシン王朝を創めた。建設主任は、チャオプラヤータマーティク(本名ブゥンロト ブゥンヤラタパン家の始祖)で都礎柱は同年旧6月白分の10日午前6時45分の吉兆時に打建てられ、建設工事は2328年に完了。昭和57年に二百周年の祝典が行われた。2514年12月21日革命団布告により、ナコンルワングクルングテープトンブリー(バンコック県トンブリ―都)に改められ、さらに翌年12月13日革命団布告により
クルゥングテープマハナコン(大バンコック都)に改称された。人口約500万。

日本なら首都は東京の漢字2文字であるが。タイの場合は、タイ人でも全部を覚えている人はほとんどいないのが現状。小学校で歌にして生徒に暗記させてはいるようです。

              祝祭日。年中行事
*全国的な公休日(年15日) ※移動祝祭日 
1月1日ワン クン ピーマイ

王宮前広場に1000人の僧侶が集まり信者の布施を受ける。1月1日を元旦とするのは1941年以後のことである。

ワン トルット チン

中国正月1月末〜2月中。2月13,14、15はがめつい華僑も店を休む。ヤワラーの町は死んだように静まり返る。スワニーの北京飯店は休み。

ワン マーカ ブーチャー
*※
万仏節2月 タイ陰暦3月または4月の満月の日。釈迦の在命中、愛弟子による第一回目の自主的な会合が行われた故事を祝う聖日。夕方、手に蝋燭、線香、花を添えた多くの信者が集まり、経文を斉唱したあと、本堂のまわりを3階回り徳を積む。

ワン テー ラルック マハー チャックリー ボーロム ラーチャウォン
4月6日現王朝記念日。1782年現チャックリー王朝の始祖が王位についた日を祭る国家的記念日。現国王は第9代目に当たる。王室がそろってラマ1世の銅像に参拝される。ほか、エメラルド寺院の中にある歴代王朝がこの日に限り一般公開される。

ワン ソンクラーン ソンクラーン祭

4月13〜15日まで誰でも知ってるタイの正月。私はこの日が嫌いである。どこに行っても水をかけられる。タイ人にとっては年に1回の憂さ晴らし。この時期は収穫後の暇な時期にあたり、寺院、僧侶への積徳の行為や各種のお祭りに当てられている。元旦には寺にお参りしてお布施をし仏像に聖水を振り掛ける。また年長者へ年始回りをし、合掌した掌に水を注いだり、鳥や魚を放して功徳を願う習慣もある。

ワン レーン ガーン ヘン チャート

5月1日メーデー

ワン チャット モンコン

5月5日戴冠記念日現プーミポン.アドゥンヤデート王が1950年に即位されたのを祝賀する日。王は前兄王の不慮の死去に伴い、1946年に王位を継承。スイスでの大学での学業を終えられた1950年3月に帰国、前王の御大葬の儀、シリキット妃との婚礼を経て5月5日に戴冠式が執り行われた。

ワン ウィサーカ ブーチャー
*※
5月仏誕節 上座部仏教では、釈迦の降誕、成道、入滅はともに同じ日、つまりタイの陰暦6月の満月日に生じたと信じられており、仏教上最も尊い日とされ、スコータイ時代から祭りの日とされてきた。この日、各地の寺は美しい花や灯ろう等の照明に飾られ、信者は供養の経を唱えた後、僧侶とともに、火をともした蝋燭を手に本堂のまわりを三回まわる。

ワン プート モンコン
*※
5月春耕節 5月上旬の吉日おこなわれてきた古代からの耕作儀式。王宮前広場で、国王.王妃の御臨席のもと、農耕期の天候とその年の収穫を占う。また、祭主が耕した土の上に、選ばれた美女が種を蒔く。儀式後、群衆は蒔かれた種を争って拾い集め、豊作や祝福の守り神とする。

ワン アーサーラハ ブーチャ
*※
7月 三宝節 釈迦は悟りを開いた日の7週間後、タイ陰暦8月の満月日に初めて5人の弟子に仏法を説き、仏、宝、僧の三宝を完成したとされ、これを祝う仏教の祭典。「初説法の祭り」とも言われる。各僧院での行事は、万仏節、仏誕説と同様。ただ唱える経文が違っている。

ワン カオ パンサー
*※
7月 入安居 三宝節の翌日に当たり連休。安居とは雨期の期間3ヶ月を指し、入安居はこの初日のこと。安居の間、僧侶は寺の内に留まり修行励む。短期出家の大部分がこの時期に行われ、寺は新旧の僧侶であふれる。一般信者も、僧侶の世話や寄進にしばしば寺を訪れる。家庭にあっては禁欲に務め、功徳を積むよう努力する。入安居の日は外での飲酒は禁止で、ネオン街は全部休業
パッポンはソフトドリンクだけで営業観光客には辛い。

ワン チャルーム プラ チャノム パンサー ソムデット プラ ナーング チャオ プラ ボーロム ラーチニー ナーク

8月12日 王妃誕生日 美女の誉れ高いシリキット妃は1932年生まれ。父君は元駐仏大使で、国王とはスイス留学中に知り合われた。御成婚は1950年4月28日。王妃は、絶えず国王とともに地方を行啓されるほか、タイ赤十字社の総裁など多くの要職を兼ねられている。祭りは、バンコックを中心にタイ全土で祝われる。

ワン オーク パンサー

10月 出安居 タイの陰暦11月上旬上弦15日にあたる。3ヶ月続いた安居期間の終わりを意味し、多く一時層が帰俗する。公休日ではない。宮中では、この日をはさんで3日間、王宮に毎朝150人の僧侶を招いて王自らが布施行をされる。

ワン ワイ プラチャン

10月(中国陰暦8月15日) 中秋節 中国陰暦8月満月の夜は、日本の十五夜にあたる中秋節。華人系タイ人は家の前に祭壇を設け、花、蝋燭、線香を灯し、そこへ月餅を供えて商売繁盛、家内安全などを祈る。ヤワラーのいたるところで、数週間前から工夫を凝らした月餅を売り出す。ドリアン、アヒルの卵などの餅を入れた逸品も登場する。

ワン ピヤ マハーラート

10月23日 1910年に崩御されたラーマ5世チュラロンコーン王の遺徳を偲ぶ記念日。同王の治世は明治天皇比較される。今日のタイの基本的な文化や制度は、この時代に築かれたといってよい。この日は、国会議事堂前広場に立つ王の騎馬像に花輪や線香、額が所せましと飾られ、夜はイルミネーションに輝く。

ワン ローイ クラトン

灯ろう流し タイの陰暦11月または12月の満月の日の行事。この夜川の水位最高となる。クラトンはバナナの葉や蓮の花びらで作った灯ろうのこと。ここに花、ロウソク、線香、を乗せ、コインを入れて川に流す。古代から続いている国民的行事。この日の夜バンコック中の運河、河川は川に浮かぶクラトンのロウソクで輝く。
汚らしいフアラポーン駅横の運河もこの日だけはきれいに輝く。どこの運河でもクラトンを売っているので、買って流せば恋がかなうかも?タイ人の話では何か一つお願い事が叶うとか。

ワン チャルーム プラ チャノム パンサー プラ バート ソムデット プラ チャオ ユー フゥア

12月5日 国王誕生日現ラーマ9世プーミポン国王は1928年生まれバンコックで初等教育を終えられた後は、ほとんどスイスで教育を受けられた。多彩な趣味を有され、音楽、写真、ヨット、絵画などはプロ級の腕といわれる。敬けんな仏教徒であり、また最大の仏教保護者として、国民にあまねく敬愛され、絶大な信頼を受けている。

ワン プラ ラーチャターン ラッタタンマヌーン

12月10日 憲法記念日 1932年の立憲革命によって絶対君主制が終わり、タイ最初の恒久憲法が公布されたのを祝う休日。憲法はこれまでに20回近く改廃されている。

ワン クリッサマート
12月25日 クリスマスタイ人にはあまり関係ない。

ワン シン ピー

12月31日 大晦日 タイ人にはあまり関係ない。       

                その他の日
ワン カーチャート
1/第一木曜日〜5日間記念行事が行われる。赤十字の日

ワン デーク
1/第一土曜日こどもの日

ワン クルゥー
1/16 教師の日 師の恩を思う日で、[占星学]木曜日(踊りなど稽古の弟子入りをするのは木曜日と決まっていて、この日にアルミ製の碗にハンカチを引敷き、一バーツ銀貨六枚と花、線香、ろうそくを添えて拝師礼(ワーイ拝む クルー教師)をおこなう。

ワン コーング タァプボク
1/25 陸軍記念日 ナーレスワン大王が騎像戦でビルマの副王に勝った日 

ワン カセート ヘング チャート
1/30〜2/5 国家農業週間 農業大学でいろんな催しがある。

ワン コン ピカーン ローク
3/17 世界障害者の日

ワン コーング タァプアーカート
3/27 空軍記念日

ワン コーング タァプタイ
4/8 タイ健軍記念日

ワン チャーイ
買出し日 式日または神を拝む日の前日(料理に材料を買い込んでお金を払う日)南部のナコーンシータムマラートでは黒分の15日仕事を休み子供達に人形などを買い与える。翌日は家族内の故人に供養する。

ワン メー
母の日5/9


ワン チャート
ナショナルデー 2475年6/24の民主革命を祝う日。もとは公休日であったが、国王誕生日に変わった。

ワン タムルワット
10/13警察記念日 やさしく人気のある交通警官には市民から花束の授与がある。

ワン マハー ウィパ ヨーク
大別離の日(ラーマ九世の御命名)2516/10/14 死者69名負傷者約800名をだした事件の日 14トゥラーと言うことが多い。10/5元タイ全学連委員長ティーラユットブンミーら憲法を要求するグループ13人が逮捕され。全学連が釈放を要求。12日からタムマサート大学のキャンパスで集会をはじめ、その人数は10万人にふくれ上がった。リーダーはセークサン プラソエートクンらであった。抗議集会の学生、生徒および民衆はターノム元帥(首相)プラパート元帥(内相)ナロン大佐(ターノムの長男でプラパートの娘婿)の三暴君追放を呼号して13日正午大学を出てデモ行進に移り、ラーチャダムノェーン街の革命記念塔付近で停止していた。14日午前9時半セークサンは「政府からまんぞすべき返答を得たから集会はこれで解散する」と宣し、群衆は解散し始めたが、この時一部の学生が警察隊に前進を阻まれ銃撃され3名が死亡。激怒した学生、生徒、民衆は民衆連絡局を襲撃、軍警側は戦車やヘリコプターを出動させ血の海となり、事態の収拾が困難となった。三暴君は海外に逃亡。群集はあっちこっちで焼き打ちを行い一時警官は都内から姿を消したほどであった。午後7時15分国王は「本日はタイ民族史における悲しい大離別の日であった」という語に始まる声明を発表された。この事件により学生の力、民衆の勢力が強くなりかけたが、その芽はその後2、3年のうちに摘み取られてしまった。しかしこの事件はいろんな点でタイ社会に変化をもたらした。

ワン トゥー
気にする日 中国人の元旦のこと華僑はこの日は験のいいこと
景気のいいことしかしない。

ワン ケーング
硬い日(占星学)の力の強い日とみなされている日。すなわち日、火、土で、この日に生まれた人は精神力が強いとされている。この日はお守りなどを作って呪文を唱えて魂を吹き込むによいとされている。

ワン チャイ
強姦する かってこの名の強姦魔がいた。

ワン トゥワ
自分の日 たとえば火曜生まれの人は火曜日が自分の日になる。

ワン プラー (ワン タマーサワナー)
(集まって戒律を守り説教を聞く日)
仏日 仏教徒の聖日で陰暦の8日 15日 23日と月末の日。昔はこの日が今の日曜のような休みの日であった。タイのカレンダーでは数字の上に仏像が印刷されている。

ワン プラライ ローク
[キリスト教] 最後の審判の日 世界の終わりの日

ワン プラ マイミー ホーンディオ
(慣)<仏日はなにも一回きりじゃない>またやってくる機会もあるさ「相手をつけねらう人の言う語」仏日は昔のタイ人の日曜のようなもので、この日は戒律を守りお寺に説教を聞きに行ったものである仏日は月に4回もあるので奴はきっとそのうち出てくるだろう。今に見ておれその内きっとカタをつけてやるの意

ラーチニー女学校

ポー寺の南、チャオプラヤー川に面して、名門ラーチニー女学校がある。1886年、亡き王女スナンターの追善のために建設された西洋風建築スナンターライが敷地内にある。スナンターはラーマ4世の王女で、1880年、不幸にも人々との見ている前で溺死した。当時、臣下が王女の身体に触れることはタブーとして厳しく禁じられていたために、船が沈み目の前で溺れる王女を誰も助けることができなかったのである。ラーマ5世は王女の死を深く悼んでこの建物を建てた。建物はスナンターライ学校として使われ、一時は司法省の役所にもなった。1906年、皇后は近くのアサダーン道路にあったラーチニ(皇后)女学校にこの建物を下賜され、学校はここに移転してきた。この学校は近代女子教育を進めるために設立され、その際、国王の意向でイギリス人教師を雇う従来の習慣が変えられ、一日本人女性が招聘され、教育主任としてこの学校の基礎を固めることになった。安井てつである。1904年(明治37年)から3年間、安井は校舎の選定、内部施設の整備、外部との折衝、教育内容の充実などあらゆる事柄にかかわり、事実上の校長であった。当初は貴族名門の子女30名余であったが、新校舎への移転後は200名ほどに増えたという。この間、安井は東京の親友野口幽香(二葉保育園創立者)に何通もの手紙を書いている。当時のバンコックの事情を知るうえで興味深い。

<安井てつの手紙>

朝9時から3時半まで働き続け、夫(それ)から1時間「シャム語」の稽古、其後はなほし物、明日の予習や準備、夫に家事の世話、土曜も此通。「タイ人に教えるためには英語では当然に不十分で安井はタイ語学習に励み、授業に使えるまでに上達した。しかし、昼の忙しさにもかかわらず、夜はけして快適な生活とはいかなかった」日々あつくて実に閉口、夜も寝室をとぢて(盗賊の恐れあれば)蚊帳の中に入れば汗がぐっしょり、ハンカチでふき、団扇であふぎ、苦しみつつ、終に疲れて眠る様、時には我ながらかはいさうに候、懐剣はあまり短くて却りて危険、私は長き鉄の棒を寝室に置きて毎夜やすみ候、「このように一生懸命の日々を送っていたが、学校が移転して、安井の生活も気持ちよくなる。新校舎についてつぎのように書き送る」此度移つた学校ハメナン河の岸にある宮様の御家、庭もひろく、家も立派で実に御大名になつた心持がしますよ。第一大門で、玄関も立派、客室も食堂も実にひろくて、各室皆電気燈の設があり、又客室と食堂ニハ(エレキトリック、フアン電扇)がありますよ、併し倹約して平生はハつかひません、私の室のまえニハひろい外廊下、其前にみすがおりて、みすごしに「メナン」河を見はらすのですよ、此処に来てから気もはれました。只傷ハ寄宿生を置くので、私の向と隣の室とに二十人斗りの子供を入れる筈、しかも子供が大抵ハ十歳前後で世話のやける事と、一人か二人ハことによると自分の室に入れねバならぬのです。「バンコックでの3年間の任期を終えて、安井は直接イギリスに再度の留学をし、帰国後はやがて東京女子大学の学長となる。晩年、東洋永和(現東洋英和)の校長も努めた。自由主義的なキリスト者として、日本とタイ両国の女子教育の発展に大きな足跡を残したのである。「図説 バンコック歴史散歩 友杉 孝」より引用