タイ女性
タイ女性は日本女性にはないしなやかでとても柔軟な精神面と時には身も凍りつくような合理的な精神面の二つを持ち合わせているように思えてなりませ
んでした。日本女性のようにたとえば自分の感情をあまり表には出さずある程度の我慢を持って役者を演じその時々の本音を隠し相手に読み取られない自分を演
ずるなどはあまりなく、喜怒哀楽を素直に表現します。たとえばデートの最中へそを曲げてしまえば今までの天使の微笑みは一瞬のうちに消え去りへそを曲げて
しまった感情をそのまま露骨に表現してくれるのです。顔を見れば相手の本音が読み取りやすく余分な気を使う必要もないのですが、はちきれんばかりの天使の
微笑みが同時に鬼の顔に変貌を遂げるまさにその瞬間ぞっとさせられることもありました。オットンマイダイ(我慢できない)タイ人がよく使う言葉です。
惚れられている最中タイ女性はとても情が厚くまたその裏返しでとても嫉妬深い面を持っていました。当時のタイは他の東南アジアと同じで人口の比率
が圧倒的に女性が多いようでありました。元々出生率は男の方が多いのですが、幼児時の死亡率が女に比べ圧倒的に多いのです。それは衛生状態、医療事情など
が主な原因です。庶民の子は未熟児など貧しく病気に罹っても医療が受けられません。また暑い南国ですので衛生状態も日本に比べ良いとはいえず幼児の病気に
罹る確率も高いのです。そこに戦争が加われば男は兵士として戦場に散っていきやすく、それに元々男の方が生命力が弱く病気に罹りやすいのです。だから自然
の原理で男の出生率の方が高いのです。先進国では保険制度の充実でだれでも高水準の医療が受けられるようになっていますので出生率の高い男の方が比率的に
多くなるのです。
当時タイは軍事政権下に置かれており隣国の共産化の脅威から自国を守らねばならぬ状況にありましたので年頃の男は徴兵に行かねばならず、また出家
も一生に一度は行うのが義務でありまして巷の人口比率は大変にアンバランスでありました。そこに加え昔からのタイの言伝えで男は花から花へと渡り歩く風潮
が残っておりました。(一度戦争になれば男は兵士として戦場に駆り出され露となる定めにあり、平和な時花から花へと渡り歩き子孫を多く残す義務があり、ま
た平和な時には次の戦争にそなえ働かず英気を養うため女が代わりに働き男を養う)(この風潮のなごりで怠け者の男に代わり女がその分余計な仕事を受け持つ
のであります。事実銀行、役所、オフィースから工事現場までボーとしていて動きの悪い男たちを横目にタイの女は何の文句も言わずひたすら働く姿ばかりがよ
く目に付きます)
上記の理由からタイ女性は惚れた男に対して情厚く嫉妬深くならざるえませんでした。この男を逃したら後探すのが大変でありせっかく手に入れたこの男を逃し
てなるものかという意識から独占欲が旺盛になり男は自分の所有物と思い込むようになる。自分の所有物を他の女に盗られては大変と嫉妬深くなる。もし浮気が
発覚しようものならば、大変なヒステリーに陥り時としてはハサミか包丁であそこをちょん切り捨ててしまう。そうすれば永遠に自分のものになるではないか。
「需要と供給のバランスにより男の方がはるかに有利な社会のようです」
しかしもし惚れた男に冷めてしまったら日本の女みたいに我慢はしない。オットンマイダイで終わってしまいそうです。ちょん切られたあげくとても合理的に
オットンマイダイでは目も当てられそうにありませんね。「男のシンボルあっての男です。タイでタイ女性と深い中になってしまった男性諸君は気おつけましょ
う」
国教としての小乗仏教
ある書物によると タイに伝来した仏教は、土着の精霊崇拝をも包み込んで、実践宗教の体系をつくりあげた。来世の救斉についてはいうまでもなく、この世で
の救いにも仏教は手を差し出す。人々は多様な個人的な悩みをもって寺院に訪れる。カウンセリングの役割も果たしている。同時に、仏教は社会統合の核として
も機能してきた。人々は自発的に協力して寺院を建設し、維持してきた。年中行事の日、月4回の仏日などに多くの人々が寺院にあつまり、僧侶に喜捨する。人
々が信仰する仏教を経済的に支援することが王室と国家の存在を正当化する一つの大きな根拠にもなってきた。仏教と王権は不可分の関係である。
タイ人一般庶民の内面を自分なりにいろいろな角度から観察した結果の私の独断と偏見に満ちたタイ人の宗教観
罪の意識
タイのドラマでよく見るシーンで、殺人を犯した犯人が田舎に逃げお寺に行き坊さんにお布施をして、お経を唱えてもらい、ほっとした顔になる。これで彼は心
理的に自分の犯した罪から開放されていくのです。お布施をしたことにより徳を積んだ、だから自分の犯した罪はこれで積んだ徳と相殺されてしまうのです。ど
この家にも祠があり、道徳的に悪い行いをした庶民が夜寝る前に祠に手を合わせ懺悔しているのをよく見かけました。これでその日犯した罪は帳消しになっつの
です。「但しタイ国も民主主義国家ですので、罪を犯せば警察の追及からはもちろん逃れきれず刑法の罰はもちろん受けなければなりません」それからタイのあ
る坊さんが書いたある書物に書いてあった覚えがあるが、タイ人は生まれてから死ぬまでに、行った功罪を覚えていて、死ぬまでに犯した罪より積んだ徳の方が
1点でも多ければ、輪廻転生で来世良い人生に恵まれるという信仰が強い、誰もが死ぬまでに頭の中で人生の収支決算ができるすごい優秀な国民だと思います。
結婚観
富む者が貧しき者に施しを与えなければならないと仏様は言っているようでありまして、日本の自助努力の文化とはとても大きな違いがあるようです。この問題
を解消するためタイ社会では結婚を同等婚にする傾向が強いようです。もし富む者と貧しき者が非同等婚で結婚した場合考えたくもありませんが、貧しき新郎、
新婦側の10本の指では足りない親、兄弟、親戚縁者たちが富む新郎、新婦場合によっては富む新郎、新婦側の家族さえも巻き込み肩にずっしりと圧し掛かって
きます。仏の教えとはいえやはり程度問題があり、このような事態になることを富める側のタイ人も大変恐れているようです。
恵む側、恵まれる側の心の中は?
施しを受ける側の乞食は、これはと思った人に狙いを定め両手をあわせ施しを要求します。与える側の人はその乞食に施しながら、仏に徳を積ましてもらいあり
がとうと心の中で感謝しているようであります。乞食の側は施しを受けながら、両手をあわせ感謝の気持ちを表していますが、与えてもらった人などにもちろん
感謝しているのではなく、仏に対して今日いくらかの糧を与えてくれありがとうございましたと感謝しているようであります。そしてなんと与えてくれた人に対
しては、感謝ではなく、心の中で俺はお前に徳を積ましてやったのだからありがたく思えと言っているようであります。「つまり富む人に与えてもらった物に対
する思考的解釈は、これは仏様が与えてくれた物であるというのが本音であるようです」
タイ、小乗仏教の合理性
私の実体験上からのほんの一例でありますが。昔酒場で知り合ったある女をジュライホテルに連れて帰ったことがあった。朝おきると彼女の姿はなかった。もし
やとおもい、財布を見たら案の定であったが、全額抜かれたのではなく、私がその日飯を食べ、銀行に両替に行くまでの間を凌げるだけの費用はちゃんと残して
おいてくれた。先輩がたにこの話をしたところ、一回くらいは、多くの日本人が経験しているが、全額抜かずにその場を凌げる分のお金を残していってくれるこ
とが、ごくあたりまえの習慣であることが、分かった。それから後のある日その酒場で、その女と再会することができた。あっけらかんとこう答えた。ごめんな
さい、あの日お金が欲しくて、今日これから、ジュライホテルに一緒に行きましょう。お金はあの日盗んだお金から引くので、ただでいいわよと言った。そして
私はそのとおり、一緒に帰った。そして、その時は、その女の言うとおりであった。「もし今この人が持っているお金を全額持って行ってしまたら、この人はす
ごく困ることになる。これでは仏の道に反してしまう。だけどお金は欲しい、それでは、これだけのお金を残してあげておけば、この人はその場を凌ぐことがで
き、さほど困りはしないだろう」タイ人の宗教観、思考カイロを物語る一つの事例です。「経済の発展により宗教心も薄れてきているようですので、現在におい
ては朝目が覚めたらきれいさっぱり紛失しており、後に天使と再会をはたしても当時のようなアフターケアーを受けることが難しくはなっているようですので、
くれぐれも自己責任において行動してください」
|