1996~97>一番好きな国


   



エチオピア連邦共和国

実に面白い国です。女性が美しいです。なぜか治安も良いです。ブンナベッド「宿と食堂とバー」の機能を兼ね備えた安宿が国内いたるところにありますので、エチオピア移動中宿泊にも食事にも不自由することがありません、

人々も人懐こくとても親切です。しばらく日本にいるとあまり外国のことは意識もしないし旅先での出来事なんかもあまり思い出そうとも思いませんが。なぜか、エチオピアのことだけは夢にも出てくるし。無意識のうちにも思い出すことが多いです。

地の利が日本から遠すぎるので、何度も何度も東南アジアのように行けないだけのことです。それに、アフリカ自体が高額の交通費とビザ代までだしてまでも行く気を私におこさせるだけの何かが足りないのでしょう。

しかしエチオピアだけは別格です。次回の旅はバンコックあたりからアジスアベバに飛ぶか、それとも日本からそのままアジスアベバに飛ぶか。どちらにしても、アフリカはエチオピアだけと思案しています。


以下エチオピア大使館から引用「文書だけよりは写真もあった方がいいと思い写真も勝手に拝借させていたできました。エチオピア大使館の方がもし見てたらごめんなさい^^。貴国の観光の宣伝に一役かってると思い大目に見てくださいね。オリジナルはエチオピア大使館です。

文化の大地

想像を絶する遠大な歴史を持つエチオピアの文化や伝統は、遠く3000年以上遡ります。80以上の民族が、異なる言語、文化また伝統などを維持しながら共 存しています。宗教的な教会儀式や祝祭日などが、人々の日常生活に色濃く投影しています。それぞれの行事は大変感動的で、またユニークなものです。エチオ ピア正教には最高位司祭が存在し、四世紀に端を発するこの独特の教えに現在も従い、高い誇りを持ちつつ信仰しています。

ま た同時に多くの人達がイスラム教を信じており、国の東側また南東部でカラフルなイスラム文化が繁栄しています。事実、預言者モハメッドの生存中に、すでに イスラム教の信仰者が存在しました。その歴史は壁で囲まれた街“ハラール”に息づき、世界のイスラム教聖地“メッカ”、“メディナ”、“エルサレム”に続 く第4番目の聖地として認識されています。

人々

アムハラ

アムハラの女性達は、上半身は身体の線が出るような引き締まった、でもスカート部分はゆったりした、そんな衣装をまといます。素材は純白の綿で端に刺繍の あるドレスです。男性は白を基調とした乗馬用のようなズボンと短い上着を着用します。裾や袖口などを彩る刺繍のほとんどはエチオピア正教のクロスをデザイ ンしたものです。

ハラーリ

ハーラールのイスラム教徒達はカラフルな衣装で有名です。男性でも時に赤、紫、黒色などを身に付けます。女性達は髪を耳の後ろで丸く纏めます。また何世紀 にもわたり彩色した繊維や藁を使い、大変カラフルで手の込んだ見事なバスケットを作ることで有名です。また美しい足首飾りやネックレス、ブレスレッド、銀 鎖、イヤリングなどの銀細工でも有名です。これらの製品はマーケットでも購入できますが、最高級品はハラ-ルの男女職人達が作ったもので、ハーラールで見 つけられます。

興味深い人達

オモ川下流は、“ブメ”や“コンソ”族の他、“ゲレベ”、“ボディ”、“ムルシ”、“スルマ”、“アルボレ”、“ハメール”などの少数民族の故郷です。彼 らは独自のライフスタイルを維持しています。ただし他の文化に見られるような共通する器具や道具などを持ちあわせていません。しかし彼ら独自の芸術的とも いえる方法で、感情を表現します。例えば“スルマ”や“カロ”族は、泥や野菜の色素などを使って、互いの顔、胸、腕や足に綺麗な模様をペィンティングする のが得意です。これらは純粋に楽しみのためであり美的追求であり、そして互いに競い合います。

アファー族

アファー族の多くは、最も過酷な環境である乾燥地域や砂漠地帯に住んでおり、気質が荒く好戦的であると言われています。誇り高くまた独立心が強い人々で、 厳しい環境と戦いながら生活しています。彼らの多くは遊牧民ですが、その内少数の人達はアワッサ・オアシスに定着しています。彼等の大半はイスラム教徒 で、連合、部族、組合などを組織しています。遊牧民は少人数で構成され、ラクダや羊、山羊や牛などと共に生活しています。

アニュアク族

ガンベラ地域で生活しているのは、アニュアク族です。土着のアニュアクは漁師であり、大変原始的な農耕法のため十分な収穫ができませんが、モロコシを栽培しています。大きな村は少なく、5棟か6棟ほどの“ハット”がマンゴーの木々の周りに建てられています。

オロモ族

オロモ族は市場で販売される作物などを生産しています。穀類や野菜などですが、世界で愛飲されているコーヒーは、この地域で生まれたと信じられています。

ソマリ族

低地に住むソマリ族は、色彩豊かな綿布を巻きつけますが、湖水地域に住む人達は皮革製の衣類を着用します。

南部地域民族

南部地域には100以上の民族が暮らしています。コンソやヤベロの南にはコンソ族が代々住んでおり、近隣ボレナからの塩やこやす貝の購入を除いて、外部か らの影響は、つい最近までコンソ周辺までは届きませんでした。コンソ文化の基本は、決して肥沃な土地とは言えない山あいに囲まれた環境に、石で支えた台地 を築き、農作物の生産を可能としている、大変特異な、また生き伸びるための英知に富んだ農業経済を成功させています。

ティグライ族

ティグライ族の女性は、シュルバと呼ばれる編上げ状にした髪を、頭でまとめたり、肩まで垂らしたりしています。幼い子供達は小さい編上げを後ろに一本残し て、頭を剃ってしまうことがあります。これは神様が天国から声をかけたとき、引っ張り上げてもらう為のものです。
エチオピア大使館から引用以上です

以下私の文書です。
衛生状態 水事情
1997/1月当時の情報です

海 川 も無く陸の孤島。そのため生活用水は井戸を掘り、地下水を汲み上げるしかなく大変に貴重なものです。お金持ちは、自分のところで専用の井戸を持ち洗濯、入浴その他不自由のない生活を送る事が出来るのでしょうが、その他大多数の恵まれない人々は、なけなしの金を出して、自分のところで、専用の井戸を持つお金持ちから買わなくてはなりません。洗濯は月に一度、水浴びも一、二週間に一度といった割合で生活をしている人がほとんどです。旅行者も例外ではなく、高級ホテルに泊まる人以外は宿で、水浴をすることは、ほぼ絶望的でした。洗濯をしたければ、洗濯屋に出すしかありません。私も1ヶ月ちょっとの旅で、一度だけ首都アジスアベバで洗濯屋に出しただけです。水浴びもアジスアベバでサウナを見つけ体を納得行くまで洗うことができた以外は、残念ながら一度も思う存分に水浴びできませんでした。このような水事情ですので、慢性的に南京虫が繁殖しており、エチオピア旅行中に、南京虫を避けることは、100%不可能です。部屋にチェクインして一番にしなければならないことが、マットレス、シーツ、枕に枕カバーを外に干して日光消毒。そしてベットの木枠からなにまで、まんべんなく殺虫剤を大量にふりかけます。よしこれで大丈夫と思い寝てみると、やはりだめでありました。日増しに南京虫の痕が増えていくのでした。一度も南京虫にやられない旅行者を、見たことがないのが現状でした。特に白人たちは悲惨極まりないほど、徹底的にやられていたようでした。腕から首筋はもちろん、若く美しい白人娘が、顔面を南京虫にやられ、赤く膨れ上がっているのを見た時、思わず、涙がこぼれるほどでした。エチオピアの旅は南京虫との戦いといっても過言ではありません。南京虫のいないエチオピアなんて、クリープを入れないコーヒーみたいなものです。
    
 治安状況

治安は驚くほど良く何の被害も受けず、また被害に遭いそうな危機感も感じられませんでした。ただ子供たちには泣かされました。エチオピア中いたる所で歩いていると。「チノチノと」いう罵声と共に投石の歓迎を受けなければなりません。大人たちに聞くところによると「チノとは中国人を指す言葉」子供達は当たらないように投げているので、むかつくだけで、ほとんど問題はありませんでした。また投石があまり酷いようであれば、大人たちが、助け船を出してくれます。これは私の憶測ですが、昔の中国と同じで、外国人に手を出す者には重い罪が待ち受けているように感じました。手を出し自国を訪れる、お金持ち外国人の金品を奪い取りたいという、欲望に駆られるのが、恵まれない国々の恵まれない人々の人情というものです。この国の人々を見ていると、この人情が強く伝わってきました。しかしその感情を押し殺し我慢している気配も強く伝わって来ました。警察も例外ではありませんでした。首都アジスアベバの夜の、盛り場ピアッサでのことでした。鞭を持ち、肩で風を切り、無力な市民を、すれ違いざまに気分しだいで叩きつけ、のし歩く警官が前方から歩いてきました。私が酔っぱらい、通りの真ん中を堂々と歩いていると。20メートルほども先から、私に道を譲り、淵に寄り、目を下に向け、関わりたくないという仕草で、早々とすれ違って行きました。他の恵まれない国々の警官なら、このような事は絶対にありえず。なんらかの理由をつけて、外国人に近づいてこようとするのではないでしょうか?そして、できれば、金を取ってやろうと考えるのが自然体のはずであり、しかもアフリカです。長く続いた革命や内乱の後、やっと平和が訪れ、何の産業もなく。港もないこの国で、外貨を稼ぐ方法は援助と、観光しかなく。政府の外国人に訪れてもらい、外貨を落としていってほしいという熱い気持ちが手に取るように伝わって来ました。物価があまりにも安いので、気がつかなかっただけかもしれませんが、一度もぼられた覚えもなく明朗会計そのものでした。

 安宿事情

ブンナベット 「ブンナ=コーヒ」「ベット=そのままベット」=寝れて食べれて飲むことのできる場所。食堂とバーが完備された旅社を指す言葉。このような安宿「ブンナベット」が、エチオピア国内至る所にあり、宿泊事情は完璧です。

 食事情

エチオピアと言えば、南京虫とインゼェラと子供たちの投石と美女の国。食と言えばインゼェラ。国民の主食で酸っぱい、まずい。粟に似たテフという穀物から作り、クレープ状のパンで発酵させているので酸味が強い。一口食べると酸ぱい。その酸ぱさを消すため、また一口食べるの繰り返し。おかずは羊がメイン。羊肉のシチューカイワット。香辛料バルバレを使った鳥肉と卵のシチュー、ドロワット。豆の煮込みシュロなどです。インゼェラが食べれないと、具のないスパゲテイもどきのパスタぐらいしかなく、栄養もないため、インゼェラを食べれないとこの国を旅するのはきついです。ミネラルウオーターはガス入りしかなくすぐに腹が張り、最初のうちは苦労します。

 アルコール事情

旧社会主義国だけあって、飛び道具は安く充実していました。 ビールはビンづめも数種類あります。ブンナベットのバーで生ビールもあり、生ビールのほうがうまいです。どちらも20セントぐらいです。その他ウイスキー ブランデーがエチオピア中いたる所にあります。ブンナベットのバーで、なんと、ジョニーウオーカー シーバイス ヘネシーなどが、よりどりみどりで、シングルで30セントぐらいです。本物と思われますが、なぜこの国にこのような低価格で入っているのか不思議です。

 通貨事情

通貨ブル(Birr)1ドル約7ブル。(1997jan)闇両替は半ば公然とおこなわれていましたが、100ドル札で「1ドル=7.3~7.5ブル」ぐらいでした。物価も安く、あまり長いも出来ない国では、公定とあまり変わらず利用価値はあまりないと思います。日本円は銀行で両替できます。円のトラベラーズチェックもできます。現金よりチェックの方が、率がよかたような覚えがあります。日本でドルを買う手数料を考えたら、円のまま持って来てブルに両替したほうがいいです。エリトリアでもブルを使っているため、エリトリアに行かれる、またはエリトリアから来られる人には便利です。

 暦と時間

西洋暦とは異なるユリウス太陽暦が使われています。西暦1996年9月11日がエチオピアでは1989年1月1日にあたり、1年は30日間からなる12ヶ月と5日しかない1ヶ月の13ヶ月から成り立っています。1日の24時間が2分され7時が1時(7:00は朝1時19:00は夜1時)バスのチケットなどもこの暦と時間で記入されていることが多いのでそのつど確認したほうがいいです。

 歴史

列強による植民地分割の時代にリベリアとともに唯一独立を守り通したアフリカ最古の国。エチオピアはかって強大な帝国だった。また中世のヨーロッパでは、プレスタージョンの国として知られていた。だが今日では世界で最も貧しい国の一つであり干ばつや飢餓に苦しんでいる。(あるいは、我が日本国の近い将来の姿かもしれない。)近代エチオピアは2世紀のアクスム王国に端を発する。アクスム王国は4世紀にキリスト教に改宗したがイスラム勢力が7世紀に行った征服運動によってヨーロッパと遮断されてしまった。ヨーロッパが再びエチオピアの存在を知ったのは伝説的な修道王プレスター・ジョンの命を受けたエチオピア修道士の一行がローマ教会との結合を求めてやって来たと信じられている15世紀になってからだった。1520年にポルトガルがエチオピアと接触しエチオピア南東部イスラム系地方の鎮圧やトルコに対する闘争を支持したが1633年にイスズスカイの宣教師は全員追放されてしまった。そして文化面ではルネサンスが起こったが古代風の社会制度は維持された。この古い帝国も19世紀の終わりにメネリク2世(1884-1913)が再統一を果たした。しかしその時すでにイタリアが北部のエリトリア地方の領有を主張していたのである。近代化はハイ セレシエ皇帝(1892-1975)のもとで、1930年に開始されたが、5年後にイタリアが侵攻する。イタリア勢力は 1941年に駆逐され、1950年にエリトリアは連邦国家としてエチオピアに統合された。ところが、1962年にエリトリアを完全統合したころから内乱が勃発し、90年代まで続いた。1974年、軍事クーデターによって老齢のハイセレシエ皇帝は廃位され、メンギスツ ハイレ マリアム中佐(1938-)を首班とする臨時軍事評議PMACが樹立される。しかし内乱は続き、北部のエリトリアと分離運動が高まって内戦は激化した。ソマリアは1977年と80年にオガデン地方に侵入しが、二度ともソ連の援助のもとで撃退された。 1984年以後、北部の干ばつによる被害者を救援しようと国際社会は大規模な援助を試みているが、内線のためその効果はきわめて低い。1991年、メンギスツ政権は反乱軍の緩やかな連合勢力によってようやく倒されたが、今度はエリトリア内部で、完全独立を目指す勢力と、自由と自治権の拡大だけを望む勢力との亀裂が明らかになった。エチオピアには多くの民族集団があり、互いに複雑に混合している。最大なのは現在政権を握るアムハラ族で、全人口の約30%を占め、多くが北部及び中央部に住んでいる。次が約25%を閉めるオロモ族で、だいたい東部および南部に住む。公用語はアムハラ語だが、70ほどの言語が話されている。国民の半数程度がキリスト教徒、1/3がイスラム教徒と見られる。大半の人々が農村部に生活するが、多くが遊牧生活あるいは半遊牧生活を営んでいる。
 
 経済

農業が就業人口の4/5程度を占めるが、内線と干ばつによって生産量は極度に減少した。機械化はほとんど進んでいない。

3000m以上の高地には高山性草地があり、国民の大部分はそれより低い温暖な地帯に住んでいる。そこではトウモロコシ、小麦、大麦ほかの穀物が栽培されるほか、牛や馬、羊が育てられている。

1800m以下の地帯は熱帯性で、雨量の多い地域はコーヒー豆(主要輸出作物である)やサトウキビの適地である。

エチオピアには、金、プラチナ、銅に加え、良質高価な石炭岩の鉱脈がある。電力の大部分は水力によっているが、地溝帯での地熱発電とともに、水力発電の将来的可能性は大きい。

飢餓、干ばつ、内線のため経済は枯渇しており、輸出品の生産も阻害されている。ところがエチオピアはアフリカ最大の常備軍を抱えており、キューバおよび旧ソ連に対し膨大な債務を負っている。主要貿易相手国は、ドイツ、旧ソ連、アメリカ合衆国、イタリア、日本である。

アジスアベバと主要都市は舗装道路で結ばれている。またアジスアベバからアデン湾のジプチ港への鉄道路線がエチオピアと海との主要な連絡路線である。

 みどころ

シシャマネ。ケニア側から入国してアジスアベバに来る途中にある所。なぜかキューバから移り住んできた人々によって、ラスタマンビレッチが形成されている。アルコール以外のもうひとつの飛び道具である。ハッパもここで手に入る。品質最高に加えて、標高の高いこの地では一本で十分。今まで行った国の中で、わずか一本でこれほど効いた国は、ほかにありません。キューバの人々の住むラスタマンビレッチは見る価値十分。ボブマリンを想像させてくれる。そういえばエチオピアの国旗はラスタマンのシンボルと同じ、緑、黄色、赤です。

アジスアベバ 首都 ナイロビは1年中春、アジスアベバは、秋と表現した、エチオピア女性を描き続けた故水野富美夫画伯。その言葉どうり、標高2400m にあるアジスアベバは朝晩寒々としていた。シシャマネで手に入れハッパを1本吸えばもう天国。南京虫の傷跡も疼き、さらに痒みが増す。最後には掻き毟るのが快感になってきました。安宿はピアッサがお勧め。青と白の乗り合いワゴン(トヨタハイエース)が市内を走っている。乗りたい所で乗れ、降りたい所で降りれる優れもの。料金も明朗会計。ピアッサ界隈にある(ブンナベット)バーでナイトライフが堪能できる。

バハルダール(BAHIR DAR) ブルーナイルの滝とブルーナイル川の水源。タナ湖に浮かぶ37の島々にある修道院や教会、宗教画家によって描かれたフレスコ画が鮮やかに残っている。価値あり。私はフレスコ画の写真をタイで紛失してしまいました残念。

ゴンダール(GONDAR) 17~19世紀の旧都。ファシリダス王の城跡。古代ユダヤ教を信棒する失われた部族ブラック ジュ-の住むファラシャの村がある。何も無いが人々は素朴で親切でした。南京虫も大歓迎してくれました。

アクスム(AXUM) 失われたアークのゆくえ。
「アーク」とは旧約聖書の中で、モーゼが神との契約のしるしに与えられた、「十戒」の記された2枚の石板を納めた聖なる箱。聖書によれば、このアークはその後ゆくえをくらませ消息はわかっていない。この契約の聖櫃がエチオピア北部の古い聖地アクスムにある「シオン聖マリア教会」の聖堂におさめられているという、言い伝えがある。伝説によれば、エチオピアの統治者「シェバの女王」がエルサレムにソロモン王をたずねたときに、ソロモンとの間に子供ができたという。その子が後にエルサレムの神殿におさめられていたアークを持ち出して、エチオピアにもたらしたという物語。この伝説は今でもエチオピア人の間で信じられている。エチオピアのキリスト教は世界中のキリスト教徒と異なった点が多い。エチオピアにキリスト教が伝わったのは西暦4世紀のことだが、それ以前にユダヤ教が伝わっていた。このため、多くのユダヤ教的特質がキリスト教に受け継がれている。とりわけ異質なのが、ご神体とされているものが十字架でも、キリストでも、マリアでもなく、「契約のアーク」である点である。各教会の至聖所には、アークのレプリカが納められており、毎年1月18日と19日の両日に行われる「ティムカット」華やかな儀礼のとき教会の外に持ち出される。

余談ですが我が国の剣山に「アーク」契約の箱が隠されているという言い伝えがあります。現代の調査によるとかなり真実ぽいということです。エチオピアの歌と日本の演歌は非常にリズムがにています。最初の頃はバスの中食堂の中などで流れてくるエチオピアのごく普通の歌謡曲がすべて日本の演歌に違いないと錯覚しました。またお辞儀の習慣もエチオピアにあります。最初の頃びっくりしました。日本人がするよにごく普通の感じでお辞儀をするのです。契約の箱といい演歌に瓜二つの音楽といいあまりにもエチオピアと日本に共通するものが多いです。「アムハラ語」エチオピアの公用語も文法が日本語と同じらしいです。

 女性事情

シェバの血を引く末裔だけのことはあり顔のほりが深く、鼻が高く、髪はニグロだが、肌の色はいわゆる黒人の真っ黒ではなく、褐色でアラブ系と黒人の血がほどよく交じり合った混血。お隣ケニア人の女性はどちらかと言うと、チンパンジー、オラウータン、ゴリラ系の顔立ち。モヤレ間の国境を越えると、そこから先は急に褐色の美形の顔立ちに変わった。足はすらっとして長い。足首はきゅうとしまっていた。お尻の形もよかった。超理想的な体系で、美人の原型であった。個人的にはミスワールドで金メダルをあげたい。

エチオピア人は、なんと日本と同じお辞儀をする国民でした。美形でスタイルのよいエチオピア女性にお辞儀をされると、南京虫と戦いながら首都アジスアベバまで、たどり着いた価値があったと納得しました。

路上ですれ違う女学生にハローと声を掛けると。「Yo Want Fuck With Me」という挨拶の返ってくるお国柄。それもなんの抵抗も、ためらいもなく、ごく自然にでてくる明るい笑顔。たんなる挨拶で、それ以上のなにものでもないのだが、とても大らかで開放的な、この国の女性を見ているだけで、心がウキウキしてくる事間違いなし。